原敬(はらたかし)は、日本で初めて本格的な政党内閣を成立させたことで知られる総理大臣です。「平民宰相」とも呼ばれ、庶民の立場に寄り添った政策を打ち出し、日本の政党政治の礎を築きました。
東京駅での暗殺事件により生涯を閉じた彼の生い立ちや性格、政策、功績、そしてその後世への影響を詳しく解説します。
【参考】
盛岡市公式HP「もっと知りたくなる原敬」
国立国会図書館「原敬」
原敬の生い立ちと経歴
幼少期と家族背景
原敬は1856年に岩手県盛岡市で生まれました。武士の家系であったものの、平民に身を落としながらも、家族は教育に熱心でした。
特に父親からの教育の影響を強く受け、幼少期から学問に励んだと伝えられています。原家は当時としては比較的裕福であり、原は教育機会に恵まれました。このような環境で育ったことが、後の原の政治的信念や平民宰相としての姿勢に繋がっていきます。身分に左右されない平等な機会の提供という考えは、後に原の政党内閣の設立や、立憲政友会での活動の基盤となりました。
政党内閣については、こちらの記事でくわしく解説しています。
なお、岩手県出身の総理大臣は原敬を含めて4名います。これは全国で3番目に多い数字です。歴代総理大臣の出身都道府県は以下の記事でくわしく解説しています。
【総理大臣輩出県ランキング】都道府県別に出身地をランキングで紹介:総理大臣のいない県はどこ?
若年期の学びと海外留学
原は若年期から学問や語学に優れ、西洋文化やフランス語を積極的に学びました。特に1878年にフランスに留学したことで、ヨーロッパの政治や社会制度について深く学びました。
この経験が彼の政治的思想や外交方針に影響を与え、日本の発展に対する国際的視野を持つようになったと言われています。
フランス留学後に帰国した原は外務省でキャリアをスタートし、ここでの経験が外交官としての実力を養うとともに、後の内閣総理大臣としての外交政策にも反映されることになりました。
外務省での初期キャリア
フランス留学から帰国した原は外務省に入り、外交官として活躍しました。
当時の外務省は近代化の途中で、欧米諸国との関係を強化する必要に迫られていました。原は持ち前の語学力と海外での経験を活かして、日本の国際的な地位向上に貢献しました。
特に彼はフランス留学で学んだ経験を基に、国際関係や外交についての実践的な知識を蓄えました。この時期の経験が彼の政治家としての基礎を築くとともに、平民出身でありながらも日本の重要なポジションに立つ準備が整ったといえます。
立憲政友会との関わり
原は外務省での活動を経て、立憲政友会に参加しました。ここで彼は政党政治の可能性に気づき、日本における政党内閣の重要性を認識するようになります。
立憲政友会では、同じく民間出身の多くの仲間とともに、平民宰相として国民に根差した政治を目指しました。立憲政友会での活動を通して、原は国民と政府の信頼関係を築くことに力を入れました。
この信念は後に総理大臣となった際の政策にも反映され、政党政治の基礎を固める一助となりました。
なお、立憲政友会は伊藤博文が結成し、西園寺公望が後を継いでいます。伊藤博文や西園寺公望については以下の記事でくわしく解説しています。
初代内閣総理大臣・伊藤博文は何をした人か|幕末から明治にかけての評価と暗殺事件の経緯を解説
内閣総理大臣・西園寺公望の生涯と業績:自由主義の政治家と立命館大学の開祖
原敬の性格
民衆への理解と共感
原は「平民宰相」と呼ばれるほど、民衆への理解と共感に優れていました。自身も武士から平民へと身分を変えた背景があり、一般市民の生活や苦労を理解していました。
そのため、政党内閣としての在任中は国民の声を重視した政策を多く採用し、立憲政友会の信頼を得ました。
現実的かつ柔軟な思考
原敬は、現実主義者としても知られ、理想を掲げつつも、政治の現場で必要とされる柔軟な判断力を持っていました。特に政党内閣の成立を目指した際、さまざまな反対や障害を乗り越えるため、妥協も厭わず現実に即した対応を心がけました。
こうした柔軟さは、政権運営において複雑な利害関係の調整に役立ち、結果として政友会を軸とした安定した内閣の形成に貢献しました。
実践的な対応ができる性格が一層、後に内閣総理大臣としてのリーダーシップを発揮できる要因にもなりました。
協調路線の外交姿勢
原は外務省での経験から、外交政策においてアメリカなどの列強との協調外交を重視していました。「戦争は最後の手段」という考えを持ち、日本が列強国と対等な関係を築きつつも、紛争を避ける方針を貫きました。
また、日本が国際社会において信頼される国家であることを目指し、軍事力よりも経済発展や技術革新を通じた国力強化を優先しました。これにより、日本の対外関係を安定させ、内閣総理大臣としての支持基盤を強化することにもつながりました。
強い信念と人柄の信頼性
原敬は「信念を貫く人柄」として、多くの支持者からの信頼を得ていました。彼は平民宰相として国民に近い存在であろうと努め、貧困層の生活向上を目指す施策に力を入れました。
原の一貫した信念と誠実さは、政治家としての人格に大きく寄与し、政党政治における新たなリーダー像を作り上げました。また、彼の率直で丁寧な人柄は、党内外からも尊敬され、強固な支持基盤を構築することに成功しました。
原敬が政治家になった理由
民間出身の政治家としての志
原敬が政治家を目指した背景には、自身が「平民」として生まれ育った経験が影響しています。武士から平民へと身分が変わった家系であったため、原は国民の暮らしや苦労を理解しており、それを政治に反映させる使命を感じていました。
国民の視点に立った政治を実現するために、原は民間出身の政治家として日本の政治を変えたいという強い志を抱いていました。
外交官としての経験と政治的な転機
原は外交官としてのキャリアを積む中で、国際関係や日本の立ち位置について深く理解するようになりました。
この経験から、日本が内政においてもより国際的な視野を取り入れた改革を行う必要があると感じ、政治家への転身を決意しました。
外交の現場で得た見識は、後に彼の内政や外交政策に大きな影響を与え、特に政党内閣を通じた民意の反映を目指す上で重要な役割を果たしました。
立憲政友会との出会い
原敬が政治家として活動を始めた大きな契機となったのが、立憲政友会との出会いでした。立憲政友会は、民意を尊重し、民衆に根ざした政策を掲げており、原の考えと一致していました。
政友会で活動する中で、政党内閣を実現することが日本に必要だと強く感じ、以後、政友会を通じて政治家としての道を歩むようになります。この関わりが、原を総理大臣に導き、彼の長期政権の基盤となりました。
日本の発展に貢献したいという思い
日本が近代化を進め、列強国と肩を並べる中で、原は国民の生活を守り、国としての発展を確保する必要性を強く感じていました。彼の平和主義的な外交姿勢も、この思いから生まれたもので、日本の経済発展と国民生活の向上を目的とした政策を目指しました。
原の「平民宰相」としての立場から、政治家として国民に奉仕したいという決意が、彼を動かす原動力となっていました。
原敬の政治家としての姿勢やこだわり
政党内閣の確立
原は日本で初めての本格的な政党内閣を目指し、立憲政友会を中心とした内閣運営を行いました。それまでの内閣が藩閥や軍閥によるものが多かったのに対し、民意を代表する政党による内閣は画期的であり、国民の声を反映する政治の実現に力を注ぎました。
これにより、国民からの支持を得て、安定した政治基盤を築くことができました。
「平民宰相」としての国民目線
原は「平民宰相」として知られ、常に国民目線での政策を考えていました。彼は一般庶民の生活や苦労を理解しており、政党政治を通じてそれを反映させることを目指しました。
特に経済的に困難な状況にある人々の生活を改善するための政策に力を入れ、政党内閣の信頼を深めることができました。
外交と内政のバランス
外交経験が豊富であった原は、内政だけでなく外交面でも平和的な姿勢を重視しました。日本が列強に対抗するのではなく、アメリカなどと協力しつつ発展する道を選びました。
戦争などの直接的な軍事力に頼らない平和外交を進めました。
この姿勢は、当時の日本において非常に新しいものであり、後の政権にも影響を与えました。ただし、国民からは「弱腰」という印象を持たれたようです。
米騒動への対応(物価高への政策)
米騒動は前任の寺内正毅内閣のときに日本各地で起きた米価高騰による騒動です。寺内内閣は米騒動への対応が原因で退陣しています。
そのため、原内閣も米騒動への対応、つまり物価高への対策が重要課題でした。
彼は米騒動の鎮静化に向けて迅速な対応を取り、国民の不満解消に努めました。この対応が平民宰相としての彼の評価を高め、国民の生活を第一に考える姿勢を明確に示しました。
なお、米騒動に関して以下の記事でくわしく解説しています。
米騒動の原因と影響とは?寺内正毅内閣の対応とシベリア出兵との関連やその後の影響を解説
また、寺内正毅については以下の記事でくわしく解説しています。
内閣総理大臣・寺内正毅は何をした人か:その生涯と政策、後世の評価を解説(朝鮮総督府、米騒動など)
原敬の政治家としての経歴・業績
初期の外務省での活躍
外交官としてスタートを切った原は、フランス留学後の外務省で、その知識と語学力を活かして多くの外交業務に携わりました。
外務省でのキャリアが、彼の政治家としての基礎を築き、日本の国際的な地位向上にも寄与しました。
立憲政友会の創設メンバーとしての貢献
原は立憲政友会の創設メンバーの一人として、日本での政党政治の発展に貢献しました。政友会の活動を通じて、民意を尊重した政策の実現を目指し、政党内閣を導くための礎を築きました。
初の政党内閣としての功績
原敬は、日本で初めて本格的な「政党内閣」を実現し、内閣総理大臣として立憲政友会を中心に政治を主導しました。それまでの内閣が藩閥や軍閥に依存していたのに対し、原は国民の声を反映する政党政治の意義を打ち立て、政治の民主化を推進しました。
この功績は、後の政党政治の確立に大きく寄与し、後続の内閣にも影響を与えました。
なお、原敬を含む歴代総理大臣の系譜をこちらの記事にまとめています。
教育・福祉の充実
原の政権下では、国民の生活向上を目指し、教育や福祉の充実が図られました。彼は教育改革にも力を入れ、大学令や学校教育令を発布して義務教育の拡充や学校施設の改善を進めました。
また、社会福祉制度の充実に取り組み、平民宰相として庶民の暮らしを守る姿勢を示しました。これにより、一般庶民からの信頼を高め、平民宰相としての評価を確立しました。
内閣総理大臣としての原敬の政策
1918年、原敬は、爵位を持たないはじめての内閣総理大臣となりました。平民宰相と新聞で持ち上げられ、任期となります。その政策をまとめました。
軍備の縮小と平和外交の推進
原敬は、軍備の縮小と平和外交の推進を重要な政策の一つとしました。彼は軍事費の削減を通じて国の財政負担を軽減し、その分を経済発展や社会福祉に振り向けました。
アメリカ大統領・ハーディングの提唱でワシントン海軍軍縮会議が行われると、原は積極的に軍縮協力の姿勢を取りました。
ワシントン海軍軍縮条約は当時国内でも政権内でも強い反対の声が挙がっていましたが、原総理は加藤友三郎海軍大臣と連携して条約調印にこぎつけました。
ワシントン海軍軍縮条約や加藤友三郎については以下の記事でくわしく解説しています。
ワシントン海軍軍縮条約の背景と影響 – 原敬、加藤友三郎の貢献と日本の外交戦略
内閣総理大臣・加藤友三郎とは?ワシントン海軍軍縮条約を結んで世界から賞賛された名宰相
また、諸外国との平和的な関係構築を目指し、列強国に対しては経済的な協力を進めました。軍事力に頼らない国家運営を目指す姿勢は、当時の日本としては革新的でした。
経済発展とインフラ整備
原の政権では、国の経済基盤の強化に向けたインフラ整備が積極的に行われました。道路や鉄道の整備に投資を行い、特に産業振興を後押しする政策を進めました。
国内経済の発展とともに地域経済の活性化が図られ、経済的な安定を目指すための基盤が築かれました。彼の政策は、後の工業化にもつながる重要な要素でした。
教育制度の改革
原敬は、教育制度の改革にも力を入れ、義務教育の拡充と教育内容の改善を図りました。彼は特に農村部や地方の教育環境を改善し、地方でも質の高い教育を受けられるよう努めました。
教育の充実によって、国民全体の生活水準を向上させ、平民の知識向上に寄与しました。このような教育政策は、社会全体の発展にもつながりました。
農業支援策の導入
原敬内閣では、農業の支援策を導入し、農村経済の活性化を図ることも重要視しました。米騒動で明らかになった農民の不満を受け、米の価格安定や農村の経済基盤強化に向けた施策を推進しました。
農業支援策は、地方の安定化に大きく貢献し、国民からの支持を得るための重要な柱となりました
原敬内閣がそれまでの内閣と違う点
原内閣は「初の政党内閣」として有名ですが、ほかにもそれ以前の内閣と異なっていた点がありました。
初の政党内閣の誕生
原敬内閣は、日本で初めての本格的な政党内閣であり、これまでの内閣と大きく異なりました。それまでの内閣が藩閥や軍部に依存していたのに対し(藩閥政治)、原内閣は立憲政友会を中心に、政党が主導する政治運営を目指しました。
この変革により、民意を反映した政治が可能となり、日本の政党政治に新たな道を開きました。
この方針が元老・山縣有朋との対決にもつながっていました。
山縣有朋については以下の記事でくわしく解説しています。
3代内閣総理大臣・山縣有朋は何をした人か:日本近代政治・軍事体制の確立に貢献した指導者を解説
国民目線での政策の実施
「平民宰相」として知られる原は、一般庶民の視点から政策を立案し実行しました。これまでの内閣が上流階級や武士階級の利益に偏りがちであったのに対し、原は国民生活を向上させるための教育改革や農業支援策に重点を置きました。
これにより、一般庶民からの支持を集めることができ、庶民に根ざした政治の実現が進みました。
議会との協力体制の構築
原敬内閣は、議会との協力体制を重視し、政党政治の実現に向けた取り組みを行いました。これまでの内閣は議会との対立が多かったのに対し、原は立憲政友会を通じて議会運営を円滑にし、民意を反映させた政策を推進しました。
この協力体制により、政策の迅速な実施が可能となり、内閣と議会の関係が強化されました。
原内閣誕生時には、海外紙でも日本での議会制民主主義発展に期待されたほどでした。
議会制民主主義については以下の記事でくわしく解説しています。
議会制民主主義とは:議会制民主主義の仕組みやメリット・デメリットと今後の展望を解説
協調外交の実践
原内閣では、外交政策においても従来の軍事中心の姿勢から、協調外交主義へと転換が図られました。
原は軍備拡張ではなく、むしろ軍縮をして国際社会との協調を重視し、経済的な協力や文化交流を推進しました。
この方針は、列強との摩擦を減らし、日本が平和国家としての地位を確立するための基礎となりました。
一方で、陸軍の二個師団増設要求を突っぱね、日露戦争の結果や第一次世界大戦の好景気を知った国民からは「列強の圧力に屈している」という印象を持たれていました。
これが原敬暗殺の要因のひとつとも言われています。
原敬暗殺の経緯や理由
原敬は1921年に暗殺されました。その理由はいまだ謎が多く、失恋や軍縮の方針、経済政策への不満などがその原因と言われています。
【参考】
Wikipedia「原敬暗殺事件」
現代ビジネス「原敬暗殺事件、犯人の動機はじつは「失恋」だった」
東京駅での暗殺事件
原敬は1921年、東京駅で暗殺されました。
暗殺事件は日本の政党政治にとって大きな衝撃を与え、平民宰相として多くの国民に慕われていた原の死は、全国的な悲しみを引き起こしました。
暗殺者は、政治体制に不満を抱いた右翼活動家・中岡艮一であり、当時の社会不安を象徴する事件として記憶されています。
暗殺の動機
暗殺の背景には、原の政治姿勢に対する右翼からの反発がありました。特に平民宰相としての姿勢や、民意を重視した政策に対する反感が暗殺の動機とされています。
また、外交政策において対外融和を進める姿勢(特に軍縮)が一部の過激派からの批判を受けており、それが暗殺の一因となったと言われています。
ただ、裁判が異例の速さで進んだこともあり、真相は結局不明確なままです。
なお、暗殺者・中岡艮一は1934年(事件から13年後)には釈放され、1980年に77歳まで生きています。
政党政治への不安と反発
原の暗殺は、政党政治がまだ成熟していない時代における反発や不満を象徴しています。藩閥政治から政党政治への移行が進む中で、保守的な勢力からの反発や、政治の変化に対する不安が高まっていました。
この暗殺事件は、日本における政党政治の発展に大きな課題を投げかけました。
原暗殺がもたらした影響
原敬の暗殺は、政党政治への信頼が揺らぐきっかけとなり、その後の政党内閣の不安定化に影響を及ぼしました。
政党政治を支えた政友会は原という強力な後ろ盾を失い、2年後には分裂状態になりました。
また、この事件は日本における政治的暴力の問題を浮き彫りにし、以後の政権にとっても平和的な政治運営の重要性が再認識されることとなりました。
原敬の後世の評価
平民宰相としての評価
原敬は「平民宰相」として国民に親しまれたことから、後世でも庶民派の政治家として評価されています。彼のように平民の出身者が内閣総理大臣にまで登りつめたことは、日本の政治史において特筆すべき出来事です。
藩閥や軍閥に頼らない政党政治を推進し、国民の生活向上に尽力した姿勢は、長年にわたって多くの国民から尊敬を集めてきました。
政党政治の先駆者
原敬は、政党内閣を日本で初めて実現し、国民に選ばれた代表が主導する政治の基盤を築いた点で高く評価されています。それまでの藩閥政治からの脱却を目指し、政党を通じた政治運営を確立することで、国民にとっての政治の透明性を高めました。
この功績は、後に続く政党政治の発展に大きな影響を与え、日本の民主主義の基盤作りに貢献しました。
教育や社会福祉の充実への貢献
原敬は、教育の充実や福祉の改善にも力を注ぎ、その成果は後の日本社会においても高く評価されています。彼の政策により、特に義務教育が広く普及し、地方の子供たちが質の高い教育を受けられるようになったことで、社会全体の知識水準が向上しました。
また、社会福祉の充実を目指した取り組みは、現代に至るまで評価されており、日本社会における福祉の重要性を先駆的に示したとされています。
暗殺事件の悲劇とその後の影響
原敬が暗殺されたことは、日本の政党政治の発展に対する痛手とされ、その影響は長く語り継がれています。彼の暗殺によって政党政治への不安が増し、一時的に政党政治が後退する要因ともなりました。
しかしながら、この事件は政治における暴力の問題を浮き彫りにし、以降の日本の政治家たちが平和的な政治運営を重視するようになったきっかけにもなりました。
原敬の死は、後世の日本政治に平和主義や民意重視の姿勢を植え付けたとも言われています。
まとめ
原敬は、日本初の本格的な政党内閣を成立させ、国民の声を政治に反映するための礎を築いた人物です。平民宰相として、庶民の立場に寄り添った政策を展開し、教育や福祉の向上、そして平和外交を推進しました。
東京駅での暗殺という悲劇を迎えたものの、彼の功績は後世に語り継がれ、政党政治の重要性を再確認させるとともに、日本の民主主義の発展に多大な影響を与えました。原敬の政治に対する情熱と庶民への思いは、今なお日本政治において評価され続けています。
原敬についてもっと知りたい方には以下の本がおすすめです。
原敬 「平民宰相」の虚像と実像 (中公新書)
「こんな総理が今いたら」というテーマで原敬を描いている本↓
真実の原敬 維新を超えた宰相 (講談社現代新書 2583)
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