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米騒動の原因と影響とは?寺内正毅内閣の対応とシベリア出兵との関連やその後の影響を解説

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団結して訴えを起こす人たち まとめ
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1918年に発生した米騒動は、富山県を中心に日本全国に広がり、当時の政府に大きな影響を与えました。米の価格高騰により貧しい人々が暴動を起こし、寺内正毅内閣はこの危機にどのように対応したのでしょうか。

また、この事件とシベリア出兵との関連性も重要なポイントとなります。

この記事では、米騒動の発生時期、原因、発生地、そしてシベリア出兵とのつながりについて詳しく解説します。

【参考】
米騒動100年
NHK・歴史探偵「米騒動」

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米騒動はいつ起こったのか?

米騒動の発生時期

米騒動は1918年(大正7年)の、特に7月に始まりました。富山県高岡市で米の価格高騰に対する抗議行動が発端となり、その後全国に広がりました。

この時期は、第一次世界大戦後の混乱と、急激な物価の上昇が重なった時期でした。

米価の急騰

米の価格は短期間で急激に上昇しました。1912年(大正のはじまり)は1俵(60kg)が8円38銭(現在価値で34,314円)だったのに、1919年には18円40銭(97,844円)になっていました。

参考:わくわくお米本舗

富山県での発端

最初の騒動は、富山県の高岡市で発生しました。

米の高騰に抗議するため、多くの女性たちが集まり、暴動を起こしました。この抗議活動は富山から周辺の地域にも広がり、全国的な米騒動へと繋がりました。

団結する人たち

騒動の広がり

富山での暴動は、次第に日本全土に波及しました。港町や商業都市を中心に、米の供給不足や高騰に対する怒りが爆発し、都市部や地方でも抗議活動が見られました。

特に、米を生活必需品として依存していた地域で反発が強く起こりました。

米騒動の原因

物価高騰と米不足

米騒動の主要な原因は、米の価格高騰と供給不足でした。

第一次世界大戦の影響で、米の需要は急激に増加し、さらに自然災害や輸出の増加が重なって、国内での米不足が深刻化しました。この影響で、米の価格が急上昇し、庶民の生活を圧迫しました。

戦争経済と民衆の困窮

戦争の影響で日本政府は戦費を賄うために資源を戦争に集中させ、国内経済の安定を犠牲にしました。この政策は、労働者や一般市民に負担を強い、貧困層の不満を引き起こしました。米騒動はその不満の爆発でした。

政府の無策と民衆の反発

当時の政府は、米の供給不足に対して効果的な対策を取らず、米の流通をコントロールする手段が限られていました。これが民衆の不信感を増し、騒動を拡大させる原因となりました。政府の無策が、米騒動を引き起こした重要な要因です。

米騒動の発生地—富山

富山県の背景

富山県は、米の生産が盛んな地域ですが、1918年当時、輸送の混乱と米の供給不足により、米価格が急騰しました。特に富山県高岡市では、商業的な米市場があり、米を手に入れられない市民が集中したため、抗議が集まりました。

高岡市での暴動

高岡市では、米の値段が高すぎると感じた市民が集まり、暴動を起こしました。

最初は女性たちが中心となり、商店を襲撃したり、米を買い占めようとしたりする行動をとったのです。

これが、後に全国的な規模に広がる米騒動のきっかけとなりました。

他の地域への波及

富山県内で起きた騒動は、次第に隣接する地域や、他の都市にも広がりました。特に商業中心地である大阪や東京でも、米価格の高騰に抗議するための集会やデモが行われました。

このように、地方から全国規模へと広がる形で、米騒動は発展していきました。

シベリア出兵との関連

シベリア出兵と日本経済

シベリア出兵(1918年~1922年)では、日本がロシア革命後の混乱に介入するために多額の軍事費を投入しました。この費用が、国内経済に大きな負担を与え、物価の高騰を引き起こしました。

米騒動の背景には、このような戦争関連の経済的な影響があります。

シベリア出兵に関して、寺内正毅内閣が行った対応について詳しく知りたい場合はこちらの記事を参照ください。

出兵による資源の浪費

シベリア出兵によって、日本の資源は戦争費用に集中し、国内経済への配慮が不足していました。このような状況が、米不足や物価上昇をさらに悪化させ、民衆の不満が募った結果、米騒動が引き起こされました。

民衆の反感とシベリア出兵

米騒動を起こした民衆の中には、戦争の負担を直接的に感じていた層も多かったと言われています。シベリア出兵による軍事費の支出が、民衆の生活に悪影響を与えているとの認識が広まり、政治的な反発を引き起こしたのです。

米騒動の影響

政府の対応とその後

米騒動を受けて、政府は米の流通や供給を改善するために、米の価格安定政策を実施しました。これにより、一部の地域では米の供給が改善されましたが、根本的な経済政策の改革には至りませんでした。

寺内正毅内閣の政策がこの状況をどのように悪化させたのかについて、詳細はこちらの記事でご覧いただけます。

大正デモクラシーの波及

米騒動は、民衆が政治的に声を上げる契機となり、大正デモクラシーの進展を後押ししました。民衆が政治に対して強い関心を示すようになり、次第に政治改革への期待が高まっていきました。

日本社会に与えた影響

米騒動は、日本の社会全体に多大な影響を与えました。物価上昇や生活困窮に対する不満が一斉に噴出し、社会的な不安定さが顕在化しました。

これにより、政治や社会の変革が急務となり、その後の時代を特徴づける重要な出来事となりました。

このように、米騒動は社会経済的な背景シベリア出兵の影響が重なった結果、民衆の反発が爆発した大規模な事件でした。経済的な不安定さがもたらしたこの騒動は、日本の民主主義運動政治改革の一環として位置づけられています。

まとめ

米騒動は1918年、主に富山県で発生した暴動で、米の価格高騰が原因でした。寺内正毅内閣は当初、暴動に対して軍事力を使って鎮圧しようとしましたが、その結果として国民の不満を招きました。

また、米騒動とシベリア出兵は密接に関連しており、戦争の影響が日本国内の経済にまで及んでいました。

この事件は、後の日本の政治と社会に深い影響を与える重要な出来事となりました。

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