黒田清隆は、明治初期の日本で大きな役割を果たした政治家の一人です。開拓使長官や内閣総理大臣として活躍し、国家建設や北海道開発に尽力しました。
本記事では、黒田の生い立ちから、政治家としてのこだわりや評価までをくわしく解説し、その功績と後世への影響を振り返ります。
黒田清隆の生い立ち・経歴
まず、黒田清隆の生い立ちから振り返ります。
生い立ち
黒田清隆は天保11年(1840年)、薩摩国鹿児島で生まれました。父親は下級武士で、家禄はわずか4石でした。非常に貧しい家庭で育ちました。
彼の家系は後に明治期に子爵となる黒田清綱の家と同族ですが、遠縁にあたります。幼少期から薩摩藩士としての教育を受け、武士の道を歩み始めました。
幕末の活動
幕末に黒田は薩摩藩士として、江川英龍に学びながら砲術を習得しました。
文久2年(1862年)の生麦事件や、文久3年(1863年)の薩英戦争などに参加し、特に薩長同盟の締結に尽力しました。
彼の外交手腕は、この同盟の成立に重要な役割を果たしました。
戊辰戦争への参戦
戊辰戦争では新政府軍の参謀として北陸戦線を指揮しました。
特に、長岡藩を降伏させるための戦略を立て、河井継之助の登用を図るなど(成功せず)、戦局を有利に進めるために尽力しました。
また、箱館戦争でも重要な指揮官として活躍しました。
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黒田清隆は以下のような性格だったと言われています。
寡黙で冷静な性格
黒田は冷静沈着な性格で知られ、感情を表に出すことは少なく、特に戦場ではその冷静さが際立ちました。彼は自らの信念を貫き、周囲の意見に左右されることなく、しっかりとした判断を下しました。
誠実で忠実な人柄
彼の誠実さと忠義心は、薩摩藩士としての行動や、旧幕府方だった榎本武揚を助命しようとした姿勢に現れています。特に、榎本のために剃髪したエピソードは、彼の誠実さを象徴する出来事です。
黒田清隆が政治家になった理由
軍人としての経歴を経てきた黒田清隆ですが、明治時代になり政治家になります。その理由を考えます。
薩摩藩士としての背景と影響
黒田清隆が政治家としての道を歩むきっかけは、薩摩藩士としての生い立ちにあります。薩摩藩に生まれた彼は、当時の藩士教育を通じて武士としての精神と、国を守る責務を学びました。
また、同じ薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通といった同時代の人物たちとともに、日本の将来を憂い、明治維新において薩摩藩が果たすべき役割について深く考えました。
このように、薩摩藩の一員としての誇りが彼の政治家としての基盤を形成しました。
明治維新での活躍と国家建設への志
明治維新における活動も、黒田清隆が政治家を志す大きな理由の一つです。
藩士として維新運動に参加した彼は、武士の社会から平等な社会を目指す新政府の理念に共鳴し、積極的に国家建設に携わりました。
前述のように、清隆は特に軍事面での貢献が目立ち、戊辰戦争では指揮官として勝利を収め、新政府での地位を確立しました。
この維新運動での経験が、彼の中で「新しい日本を築く」という使命感を強め、国家の近代化と発展を目指すために政治家としての道を歩むきっかけとなりました。
日本の近代化と外交力の向上への決意
黒田清隆が政治家を志したもう一つの理由は、日本の近代化と国際社会での地位向上への強い決意です。西洋列強の脅威が迫る中、彼は日本が強国として自立するために、政治的・軍事的な力が必要だと痛感していました。
また、清隆は西洋技術の導入や、外国との条約改正を進めることが、近代国家としての日本の発展に不可欠だと考えました。
彼はこの信念から、外交や内政の面で指導的役割を果たすことに情熱を燃やし、政治家として国家の発展に貢献しようと決意しました。
黒田清隆の政治家としてのこだわりや姿勢
明治政府で政治家になって以降、黒田清隆の政治家としての姿勢は以下のようなものでした。
政策に対する柔軟性
黒田は、常に時代の流れに応じた政策を追求しました。特に、開拓政策や外交政策においては、国益を最優先に考え、必要に応じて柔軟に対応する姿勢を持っていました。
近代国家としてのビジョン
彼は日本が国際社会で認められるためには、近代的な国家体制を整える必要があると考えていました。大日本帝国憲法の発布など、国家の根幹を成す制度作りに尽力しました。
黒田清隆の政治家としての経歴
総理大臣になる以前、政治家として以下のような経歴を経ていました。
大臣を歴任
黒田清隆は、明治政府において多くの重要なポジションを歴任しました。内務大臣や外務大臣など、要職を任され、国家の政策形成に深く関与しました。
特に内務大臣としての在任期間中、地方自治の整備や治安維持に努め、政府の基盤を固めるための政策を推進しました。
また、外交面でも積極的に活動し、条約改正交渉などにおいて日本の立場を強化することに尽力しました。彼の活動は、近代日本の政治構造に大きな影響を与えました。
軍事への関与
黒田清隆は、政治家であると同時に軍人としても知られています。彼は大日本帝国陸軍の創設に関与し、初代の陸軍大臣としてその発展に寄与しました。
特に、軍隊の近代化を推進し、西洋の軍事制度を導入することで、日本の防衛力を向上させることに力を注ぎました。
こうした取り組みは、日本が列強の一員としての地位を確立するための重要な要素となりました。
また、戦争や国防に関する政策の策定にも深く関わり、国家の安全保障に寄与しました。
開拓使長官としての実績
黒田は明治3年から5年まで開拓使長官として北海道の開拓に尽力しました。開拓使のトップとして、農業や産業の振興に力を注ぎ、北海道の発展に大きく寄与しました。
内閣総理大臣としての黒田清隆
黒田清隆は大臣歴任後、伊藤博文の後を受けて第2代・内閣総理大臣となります。
黒田は内閣制度の創設において、伊藤博文とともに日本の近代政治の基礎を築いたひとりでした。
※関連記事:初代内閣総理大臣・伊藤博文は何をした人か|幕末から明治にかけての評価と暗殺事件の経緯を解説
総理大臣就任の背景
黒田清隆は、1888年に内閣総理大臣に就任しました。当時の日本は、明治維新からの急速な近代化の真っただ中にあり、国内外の問題が山積していました。
黒田の総理大臣就任は、政治的安定を求める時期において、経験豊富な政治家の指導力が求められていた結果でした。
財政引き締め政策で知られる松方正義と黒田は、時に異なるアプローチを取りつつ、政府の安定に尽力しました。
特に、薩摩藩出身の彼は、明治維新の立役者としての経歴を持ち、そのリーダーシップに期待が寄せられました。清隆は、国家の発展と内外の安定を図るための政策を推進することを誓いました。
※関連記事:内閣総理大臣・松方正義の生涯と政治家としての業績:日本銀行設立と松方デフレなど財政政策と後世の影響
総理大臣としての政策
黒田清隆は、総理大臣在任中にいくつかの重要な政策を推進しました。
教育制度の改革や産業振興策に力を入れ、近代国家の礎を築くための施策を打ち出しました。また、外交面では、列強との交渉を進め、日本の国際的地位の向上を目指しました。
黒田はまた、軍制改革を推進した山縣有朋とも協力し、国防の強化を図りました。
※関連記事:3代内閣総理大臣・山縣有朋は何をした人か:日本近代政治・軍事体制の確立に貢献した指導者を解説
黒田清隆政権は、国内の治安維持や経済発展を目指す一方で、国際的な連携を強化するための努力も惜しまなかったと言えます。
外交や内政の改革に取り組んだ大隈重信とは、政策面での意見の相違も見られました。
※関連記事:内閣総理大臣・大隈重信の生涯と業績:早稲田大学創設や政治家としての足跡を生い立ちから解説
総理大臣としての評価
黒田清隆の総理大臣としての評価は高く、彼のリーダーシップは日本の近代化において重要な役割を果たしました。
政府内での対立を乗り越え、安定した政治を実現し、国民の信頼を得ることに成功しました。
清隆の政策は、後の政権にも影響を与え、彼の思想や政治手法はその後の政治家たちにも受け継がれることとなりました。在任期間は短かったものの、その存在感と影響力は、日本の政治史において重要な位置を占めています。
晩年と政治的影響
黒田清隆は、晩年においても政治家としてその影響力を失うことはありませんでした。政治の第一線からは退いたものの、後進の指導や政界への助言を通じて日本の政治に貢献し続けました。
また、その経歴を通じて多くの若手政治家に影響を与え、近代日本の政治の発展に寄与しました。
清隆の死後も、彼の政策や考え方は多くの政治家に引き継がれ、日本の近代化における重要な思想の一つとして位置付けられています。
黒田清隆は妻を刺殺した!?
黒田清隆は酒に酔って妻である千代を、「出迎えが遅い」と切り殺したと明治時代に新聞で報じられました。
しかし、実際には黒田によって惨殺されたわけではなかったとされています。
以下は、黒田清隆の妻・千代の死とそれがもたらした影響についての解説です。
妻・千代の不幸な死とその経緯
黒田清隆の妻・千代は、1878年(明治11年)に自宅で病死しました。まだ23歳の若さでした。肺病をわずらっており、病死だったとされています。
ところが、時は西南戦争終結直後で、明治政府への不満が世間にうずまいていた頃でした。当時の新聞は千代の死と明治政府の重鎮・大久保利通の懐刀である黒田清隆の酒癖の悪さを結び付けて報道しました。
千代の死がもたらした黒田への影響
千代の死は、黒田清隆に精神的な衝撃を与え、その後の人生や政治活動に大きな影響を及ぼしました。千代が亡くなった後、黒田はますます軍務や政治に専念するようになり、国家建設や北海道開拓の事業に力を注いでいきました。
しかし、この事件が彼の性格に影響を及ぼし、冷徹で大胆な政策判断を行う要因にもなったと見る声もあります。
大久保利通暗殺や政治的立場への影響
千代の死の直後、黒田清隆をかばっていた大久保利通が暗殺されるという事件が起きました。
直接的に大久保利通の暗殺や黒田の総理大臣辞任につながったという因果関係は確認されていませんが、黒田はさまざまなスキャンダルや事件に巻き込まれ、徐々に政治的な立場が危うくなっていきました。
千代の死を含む個人的な事件が、彼の人生の転機や政治的判断に少なからず影響した可能性はあると言えるでしょう。
黒田清隆の後世の評価
幕末から明治にかけて日本の政界を引っ張ってきた黒田清隆。後世でどのように評価されているのか、まとめました。
明治初期の国家建設への貢献
黒田清隆は明治政府の設立期において、国家建設に重要な役割を果たしたと評価されています。
特に戊辰戦争での軍功や開拓使長官としての北海道開拓事業でのリーダーシップが高く評価され、近代日本の基礎を築くための貢献が大きいとされています。
また、開拓使での取り組みは単に北海道の開発にとどまらず、日本全体の産業基盤の構築に貢献しました。彼の努力によって北海道の農業、工業、交通網の整備が進み、日本が成長するための土台作りに尽力した人物と見なされています。
日韓関係への影響と評価の分かれる外交政策
黒田清隆の外交政策、とくに朝鮮との関係構築については評価が分かれるところです。
黒田は日本の朝鮮への影響力を強化するために、釜山に領事館を開設し、日朝修好条規を締結するなど、積極的に動きました。この条約は朝鮮を独立した国家と認めながらも、日本の影響力を及ぼすものであり、日韓関係の歴史的な基礎を築いたとされます。
しかし、一部の歴史家からは、朝鮮への干渉的な態度や、朝鮮の立場に配慮しなかった側面が批判されることもあり、評価が二分しています。
北海道開拓事業における手腕と汚職疑惑の影
北海道開拓事業における黒田の手腕も、後世において大きく評価されています。黒田の指導のもとで、北海道の大規模な開発計画が進み、現在の北海道の基礎が築かれました。
しかし、その一方で「開拓使官有物払下げ事件」という汚職疑惑が彼の評判に影を落としています。これは、開拓使の官有物を不当に安く払い下げたとされる事件で、政界で大きな批判を浴びました。
この事件は黒田の功績にも影響を与え、後世の評価においてもこの事件がしばしば議論の対象となります。
まとめ
黒田清隆は、幕末から明治にかけての重要な政治家であり、日本の近代国家建設に大きな貢献を果たしました。
生い立ちから、政治家としてのこだわり、北海道開拓、朝鮮との外交、内閣総理大臣としての政策、さらには後世での評価まで、彼の多面的な姿を通して明治期の日本の変革の一端を知ることができます。
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