米内光政(よない みつまさ)は、第二次世界大戦直前に内閣総理大臣を務めた人物です。平和主義者として英米との協調を目指し、軍縮や戦争回避のために尽力しましたが、軍部との対立から辞職に追い込まれました。本記事では、米内光政の生涯や内閣の政策、功績、そしてその評価について詳しく解説します。
米内光政とは?簡単なプロフィール

生年月日と出身地
- 生年月日: 1880年3月2日
- 出身地: 岩手県盛岡市
米内光政は、盛岡藩士の家に生まれました。当時の岩手県は東北地方の中心的な地域の一つで、彼の幼少期の経験が後の人格形成に影響を与えたと考えられます。
軍人から総理大臣への転身
- 米内光政は、海軍兵学校を卒業後、海軍軍人としてのキャリアを積みました。
- 日露戦争や第一次世界大戦を経験し、その実績から海軍大臣を務めるまで昇進しました。
- 1940年には、第37代内閣総理大臣に就任し、戦争回避を目指す平和主義的な立場で政治に関与しました。
どのような人物だったのか
- 平和主義者: 戦争を回避し、英米との協調を目指しました。
- 軍縮派: 軍事力の拡張よりも外交と経済政策の重視を訴えました。
- 柔軟なリーダー: 軍人出身でありながら、軍部との衝突を恐れず、独自の信念を貫いた人物です。
なお、英米との「協調外交」として幣原喜重郎がよく知られています。幣原喜重郎については以下の記事で詳しく解説しています。
幣原喜重郎とは何をした人か?幣原外交(協調外交)と日本国憲法への貢献を分かりやすく解説
米内光政の生涯
幼少期から軍人時代への歩み
- 盛岡での幼少期:
米内光政は、質素な環境で育ち、若いころから学問に励みました。武士の家柄であるため、規律や責任感を重んじる性格を育んだとされています。 - 海軍兵学校入学と軍人としての成長:
1897年、海軍兵学校に入学。ここでの厳しい訓練と教育を経て、軍人としての基盤を築きました。卒業後は、海軍のエリートコースを歩み、実戦経験を積みました。
軍人としての評価
- 日露戦争や第一次世界大戦での活躍:
米内は、日露戦争における軍事作戦で評価され、海軍の中でも指揮能力の高い軍人として知られるようになりました。第一次世界大戦では国際的な視野を養いました。 - 海軍大臣としての軍縮政策:
軍縮条約を支持し、海軍の合理化を推進しました。これは国際社会との協調を目指す彼の信念に基づくものでした。
なお、ワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約について、以下の記事で詳しく解説しています。
ワシントン海軍軍縮条約の背景と影響 – 原敬、加藤友三郎の貢献と日本の外交戦略
ロンドン海軍軍縮条約とは?補助艦の比率や全権交渉担当者、ワシントン条約との違いを徹底解説
米内光政内閣の概要
就任時期と背景
- 就任時期: 1940年1月16日
- 背景: 第二次世界大戦の勃発により、国内外の政治情勢が混乱していた時期に、海軍の信頼を背景に総理大臣に選ばれました。
内閣の政策と成果
- 英米との外交改善: 英米との関係修復を試み、日独伊三国同盟への慎重な姿勢を見せました。
- 戦争回避への努力: 軍部の圧力を受けながらも、全面戦争を防ぐための外交努力を続けました。

内閣が直面した課題
軍部との対立: 軍部主導の政治に反対し、強硬な軍拡路線に抵抗しました。これが原因で、内閣総辞職に追い込まれる結果となりました。
なお、「軍部大臣現役武官制」の存在により、当時の内閣は軍部を押さえ込むことがむずかしくなっていました。軍部大臣現役武官制については以下の記事で詳しく解説しています。
軍部大臣現役武官制とは?制度の復活と廃止の背景、広田弘毅・山本権兵衛・山縣有朋の関与を詳しく解説
米内光政の政策と功績
内政での取り組み
軍事費の抑制と経済政策の優先。戦争準備よりも民生向上を図りました。
外交方針
- 英米との協調: 軍拡や侵略路線を回避し、平和的な国際関係を構築することを目指しました。
- 戦争回避の努力: 陸軍の強硬派との衝突を承知の上で、外交的解決を模索しました。
米内光政に対する評価
戦後の歴史家の評価
- 高評価: 平和主義と国際協調の姿勢は、戦後の日本の平和主義政策にも通じるものとして評価されています。
- 失敗: 一方で、軍部を抑え切れなかった点が指摘されています。
なお、米内光政の前の総理大臣・阿部信行も軍部からの圧力で辞職を余儀なくされています。阿部信行については以下の記事で詳しく解説しています。
【挙国一致内閣】阿部信行は何をした人か?内閣総理大臣としての役割と功績を深掘り
国内外での評価の違い
- 国内: 平和を追求した姿勢が評価される一方、軍部との対立を解決できなかった点が課題視される。
- 海外: 国際社会との協調を目指した姿勢が評価されています。
米内光政に関するエピソード
- 軍部との激しい対立: 日独伊三国同盟の是非を巡って陸軍との対立が激化。
- 内閣総辞職の経緯: 軍部の圧力による辞職が、彼の信念の強さを象徴しています。
- 逸話: 海軍大臣時代、軍縮に反対する勢力に対し、理路整然と政策の正当性を主張した話が知られています。
米内光政の死後の扱いと現在の評価
参考:日経BizGate – 最後の海相・米内光政による非エリートのリーダーシップ
戦後における扱い
米内光政の政治思想や政策は、戦後日本の平和主義的な憲法の考え方と一致する点が多く、再評価されています。
現代の視点から見る意義
現代の日本においても、外交や平和主義の重要性を考える上で、米内光政の生涯や政策は重要な参考材料となっています。
なお、太平洋戦争との関りについて、東條英機も近年になってその評価が見直されています。東條英機について以下の記事で詳しく解説しています。
東條英機の決断と日本の戦争運命:太平洋戦争の戦後評価と責任を徹底解説
Q&A
Q1. 米内光政はどのような人物ですか?
A1. 米内光政は岩手県盛岡市出身の軍人で、第37代内閣総理大臣を務めました。平和主義者として英米との協調を目指し、軍縮政策や戦争回避に尽力した人物です。
Q2. 米内光政が総理大臣に就任した背景は何ですか?
A2. 第二次世界大戦直前の混乱した政治情勢の中で、軍部との距離を保ちながら国際協調を目指す立場から、内閣総理大臣に選ばれました。
Q3. 米内光政内閣の主な政策は何ですか?
A3. 英米との関係改善や戦争回避を目指し、軍事費抑制と外交交渉に力を入れました。また、経済政策にも注力しました。
Q4. 米内光政は軍部とどのように対立しましたか?
A4. 日独伊三国同盟の締結を巡り、軍部の拡張政策に反対しました。この対立が原因で内閣総辞職を余儀なくされました。
Q5. 戦後の米内光政に対する評価はどのようなものですか?
A5. 平和主義的な姿勢と軍縮政策は高く評価されており、戦後日本の平和政策にも通じるものがあります。ただし、軍部を抑え切れなかった点も指摘されています。
Q6. 米内光政の外交方針はどのようなものでしたか?
A6. 英米との協調を重視し、侵略的な軍事行動を回避しようとしました。戦争を避けるための外交努力に尽力しました。
Q7. 米内光政の幼少期はどのようなものでしたか?
A7. 盛岡市で育ち、武士の家柄に生まれました。厳しい環境の中で学び、海軍兵学校に進学して軍人としての基盤を築きました。
Q8. なぜ米内光政の内閣は短命に終わったのですか?
A8. 軍部との対立が激化し、内閣の存続が困難となったためです。軍部の圧力により総辞職を余儀なくされました。
Q9. 米内光政の死後、どのように評価されていますか?
A9. 戦後の平和主義的な政策の先駆者として評価されています。現代でも外交や軍縮における重要な指針を示した人物として再評価されています。
Q10. 米内光政の代表的な功績は何ですか?
A10. 海軍大臣としての軍縮政策や総理大臣としての戦争回避努力が挙げられます。また、経済政策を重視し、国内の安定を目指しました。
まとめ
米内光政は、平和を追求し軍縮政策を推進した政治家であり、総理大臣として第二次世界大戦を回避するために尽力しました。
軍部との対立により内閣総辞職を余儀なくされましたが、その外交的努力と平和主義的な姿勢は、戦後の日本の平和政策に大きな影響を与えています。
彼の生涯と功績を振り返ることで、現代の私たちにも多くの示唆を与えてくれるでしょう。
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