1933年、日本は国際連盟を脱退する決断を下しました。この決断は、当時の外務大臣である松岡洋右と内閣総理大臣斎藤実によるもので、日本の外交における転換点となりました。
満洲事変を背景に、国際社会からの非難を受けて日本は孤立の道を選びますが、この脱退がもたらした影響は深遠であり、第二次世界大戦へと繋がる重要な一歩となりました。
この記事では、国際連盟脱退の背景、松岡洋右外相の演説、そしてその後の日本外交の変遷を詳述します。
国際連盟とは何か?
国際連盟は、現在の「国際連合」とは異なる組織です。国際連盟とは何なのかを解説します。
国際連盟の設立と目的
国際連盟(League of Nations)は、第一次世界大戦後の1919年に締結された「ヴェルサイユ条約」に基づき、1920年に正式に設立されました。世界平和と国際協調を目的とし、戦争を防ぐための国際的な枠組みとして機能しました。
設立の背景には、戦争による破壊と犠牲を防ぐために国家間の紛争を平和的に解決するという理念がありました。
第一次世界大戦末期にウッドロウ・ウィルソン米大統領が提唱した「平和原則14か条」がその思想的な基盤となり、国際的な軍備縮小や経済協力、領土問題の調整を図る機関として期待されました。
しかし、アメリカ自身が議会の反対により加盟しなかったことが課題となりました。
加盟国とその役割
国際連盟は設立時に42か国が加盟し、最盛期には約60か国が参加しました。日本も設立時のメンバーであり、常任理事国として重要な役割を果たしました。
常任理事国には、フランス、イギリス、イタリア、日本が含まれており、これらの国々は国際連盟の政策決定に大きな影響を持っていました。日本はこの枠組みの中で、アジア太平洋地域における地位を強化することを目指していました。
しかし、各国の利害調整が難航し、特に大国間の対立が連盟の機能を弱体化させました。
日本の国際連盟脱退の背景
日本は1933年に国際連盟を脱退してしまいます。その背景を解説します。
1920年代から1930年代の国際情勢
第一次世界大戦後、1920年代から1930年代にかけて、世界は新しい国際秩序を模索していました。戦後の国際平和を維持するため、1920年に国際連盟が設立されました。連盟は、加盟国間の紛争を平和的に解決し、武力行使を抑制することを目的としました。
しかし、次第にヨーロッパではファシズムが台頭し、ドイツではナチス党が勢力を拡大。イタリアでもベニート・ムッソリーニが政権を掌握しました。
これにより、国際連盟の平和維持能力に疑問が生じ、国際的な緊張が高まりました。
世界恐慌の発生と各国の経済政策
1929年に起こった界恐慌で、各国は深刻な経済的打撃を受けました。
アメリカでは失業率が急増し、ヨーロッパ諸国でも経済が停滞しました。日本も例外ではなく、輸出産業が打撃を受け、国内経済は混乱しました。
各国は自国の経済を守るために保護主義を強化し、貿易が縮小しました。この経済的孤立主義によって、国際協力を目指す国際連盟の役割はさらに弱まりました。
日本では高橋是清が経済危機に対処しますが、浜口雄幸内閣が経済政策を失敗。政党内閣の失政により、軍部が経済政策を主導するようになります。
その結果、軍部主導により満洲への進出が経済回復の手段だと国内で捉えられるようになりました。
なお、高橋是清や浜口雄幸については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・高橋是清は何をした人か:暗殺の経緯や理由(二・二六事件)と後世の評価を解説
内閣総理大臣・浜口雄幸の生涯と政治活動:東京駅での暗殺の背景、金解禁政策の効果を解説
満洲事変とその影響
1931年、関東軍は柳条湖事件を起こし、溥儀を初代皇帝として満州国を建国させます。これを満州事変と呼びます。浜口雄幸内閣も犬養毅内閣も満州事変の対応が後手に回ってしまい、国際社会と日本の関係を悪化させる大きな要因となりました。
※関東軍については以下の記事で詳しく解説しています。
関東軍の歴史と暴走の真実:満州事変からノモンハン事件まで徹底解説します
中国政府はこれを国際連盟に提訴し、連盟は調査団を派遣しました。その結果、1932年に提出されたリットン報告書は、日本の行動を侵略行為と非難し、満洲国の不承認を勧告しました。
この報告書に対して日本国内では強い反発が起こり、国際社会との対立を深めることになりました。特に軍部は、国際連盟が日本の国益に反するとして、連盟からの脱退を主張するようになります。
なお、満州事変については以下の記事で詳しく解説しています。
満州事変とは?分かりやすく解説|いつ、どのように起きたか、そのきっかけと結果
国際連盟の対応と限界
国際連盟は、国際連盟加盟国である日本と中国の紛争を仲介しましたが、日本の一方的な侵略を止めることができませんでした。
さらにリットン調査団の報告書は、満洲の現状維持を認める一方で、日本軍の撤退を勧告。日本政府と軍部はこれを拒否し、国際連盟の調停を受け入れませんでした。
このように、国際連盟は紛争解決において限界を露呈しました。
日本国内における軍部の台頭と政党政治の衰退
満洲事変以降、日本では軍部の影響力が急速に拡大しました。軍部は国内の経済危機を背景に、「満洲は日本の生命線である」と主張し、満洲への進出を国民に訴えました。
一方で、政党政治は軍部の圧力に屈し、外交政策において軍部に主導権を奪われました。
政治的には、軍部と連携する勢力が内閣を支持し、政党内閣の権威は失墜しました。特に、海軍・陸軍出身者の政治的影響力が増大し、軍事的冒険主義が国内政策にも反映されました。
満洲国建国と国際社会からの孤立
1932年、日本は満洲国を建国し、これを自国の保護国として位置づけました。満洲国は形式上独立国家とされましたが、実質的には日本の傀儡政権でした。この動きは中国や西洋諸国から強い非難を受けました。
国際連盟は満洲国を承認せず、日本の行動を批判しました。しかし、日本は軍事的・経済的利益を優先し、国際社会との妥協を拒否しました。
この結果、1933年2月24日、松岡洋右外相はジュネーブでの演説を行い、国際連盟からの脱退を表明しました。
松岡洋右外相の演説の詳細分析
1933年2月24日、ジュネーブにある国際連盟総会で松岡洋右外相が行った演説は、日本が国際連盟から脱退することを正式に宣言した瞬間として歴史に刻まれています。
この演説は日本の外交政策の転換点となり、国際社会との関係に大きな影響を与えました。
以下、演説の詳細とその背景、意図、反響について分析します。
演説の内容とその背景
松岡洋右の演説は、リットン報告書によって満洲事変が「日本による侵略行為」と認定されたことに対する日本政府の最終的な決断を伝えるものでした。
演説の冒頭で松岡は、国際連盟が日本の立場を理解しないことに遺憾の意を示し、次のような主張を展開しました。
- 満洲における日本の権益は自衛と経済的な必要からであり、侵略ではないと強調。
- 国際連盟が日本の行動を一方的に非難したことを「不公平」と批判。
- 「世界平和を維持するためには日本の行動が正当である」という立場を表明。
松岡外相の演説の背景
この演説の背景には、満洲事変後の中国大陸での軍事行動に対する国際社会の批判、特にイギリスやアメリカからの外交圧力がありました。
また、国内では軍部が政府に強い影響を与えており、外交交渉よりも強硬路線が支持されていました。
その結果、斎藤実内閣は閣議のすえ、国際連盟の総会での採択の結果次第では国際連盟脱退をすることを決定しました。
なお、総理大臣・斎藤実については以下の記事で詳しく解説しています。
第30代内閣総理大臣・斎藤実の生涯と功績:国際連盟脱退や二・二六事件で悲劇に散ったその原因を解説
「国の尊厳を守るため」という発言の意図と反響
演説の中で松岡は、国際連盟脱退を決断した理由として「国の尊厳を守るため」と明言しました。この発言は、日本がいかなる批判にも屈せず、自国の利益と独立を守る意思を示すものでした。
意図
この発言は各国に向けたものというより、国内向けのメッセージでした。国民に対しては、外交的妥協を拒否し、「国家の名誉」を守る政府の姿勢を強調する意図がありました。
さらに列強諸国に対しては、日本が孤立を恐れず、独自の道を進む決意を示すものでした。
反響
松岡外相の発言に対して、国内の一部の知識人や政治家は、国際的孤立を懸念しましたが、多くの国民は「国益を守る決断」として支持しました。
国際連盟加盟国は、日本の脱退を深刻な問題と捉え、国際秩序の維持に不安を感じました。特にイギリスとアメリカは、日本の孤立がアジア地域の不安定化につながることを懸念しました。
国際連盟脱退後の松岡洋右の外交的役割
国際連盟を脱退した後も、松岡洋右は日本の外交において重要な役割を果たしました。特に1930年代後半から1940年代初頭にかけて、松岡は日本の外交政策を主導しました。
日独伊三国同盟の締結
1940年、松岡は外相として日独伊三国同盟の締結に尽力しました。この同盟は、日本がナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアと結束し、枢軸国として第二次世界大戦に向けた動きを加速させました。
同盟締結により、松岡は日本をヨーロッパとアジアの二大戦線での覇権争いに巻き込むこととなりました。
一方で、アメリカやイギリスとの外交交渉はほとんど失敗し、太平洋戦争への道を開く要因となりました。
南方進出と対米交渉
1941年、松岡はソビエト連邦との中立条約(日ソ中立条約)を結ぶ一方で、アメリカとの関係悪化を修復することができませんでした。
特にハル・ノートを受けた日本政府内での対応を巡り、松岡は軍部寄りの強硬派として知られました。
国際連盟脱退に対する日本国内の反応
国際連盟脱退に対して、日本国内では賛否が渦巻きました。
政府・知識人の反応:孤立への懸念と国際協調の断絶
1933年2月24日に日本が国際連盟を脱退した際、政府内では賛否が分かれました。
松岡洋右をはじめとする外交官や軍部は「国の尊厳を守るため」として脱退を支持しましたが、一方で一部の知識人や外交専門家は、国際社会からの孤立や、長期的な経済的・政治的な不利益を懸念しました。
特に、イギリスやアメリカなどの列強諸国との関係悪化が、将来的な貿易や安全保障の面で影響を及ぼすと予測されました。
連盟脱退は、日本の外交方針が国際協調から軍事的な自立へと急速にシフトする契機となり、「孤立主義」の象徴として捉えられました。
国民世論:脱退を「独立自尊」の決断として歓迎
一方で、当時の日本国内世論は、国際連盟脱退を「国家の誇りを守る決断」として肯定的に受け止めました。
満洲事変以降、連盟内での日本への批判が続いていたため、多くの国民は連盟を「日本に敵対的な場」として見ていました。
そのため、脱退は「欧米列強に屈しない独立国家としての決断」と評価され、支持を集めました。また、メディアも政府寄りの報道を行い、「国際連盟は公平ではなく、日本は正しい行動を取った」という認識が広まりました。
このように、脱退は日本国内においてナショナリズムを高揚させ、軍部の影響力をさらに拡大させる要因となりました。
なお、こうしたナショナリズムを発揚するメディアの報道は二・二六事件でも見られ、一部の首謀者を除く大半の事件加担者が短期間で現場復帰する流れになりました。
二・二六事件については以下の記事で詳しく解説しています。
二・二六事件の真相と影響: 日本政治を揺るがした皇道派・青年将校の反乱はなぜ起きたのか
国際連盟脱退後の日本の歩み
1933年2月24日に国際連盟を脱退した日本は、国際的な孤立を深める一方で、軍事的拡張政策を推し進めていきました。
国内では軍部が政治を支配するようになり、対外的にはアジア太平洋地域での覇権確立を目指しました。
ここでは、日本がどのようにして第二次世界大戦へと進んだのかを時系列で解説します。
日独伊三国同盟の締結(1940年)
国際連盟脱退後、日本は孤立状態に陥りましたが、その中でナチス・ドイツやファシスト・イタリアとの関係を強化しました。1936年にはドイツと「日独防共協定」を結び、共産主義(特にソ連)に対抗する姿勢を示しました。
この協定がきっかけとなり、1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結されました。
- 目的:この同盟は、ドイツ、イタリア、日本が軍事的、経済的に連携し、世界を三極化することを狙ったものです。特に、日本は欧米諸国との対立を深める中で、同盟を通じて抑止力を強化しようとしました。
- 結果:同盟によって、日本はヨーロッパとアジアでの戦争において枢軸国側に立つこととなり、世界大戦への足掛かりが形成されました。
この同盟は、アメリカをはじめとする連合国側の警戒を強め、日本に対する経済制裁が強化される要因となりました。
孤立主義から軍事的拡張主義への転換
国際連盟脱退後、日本は次第に孤立主義から軍事的拡張主義へと方針を転換しました。この背景には、満洲国建国や中国大陸への進出が挙げられます。
- 満洲事変後の動き:1932年に満洲国を建国した日本は、中国東北部を支配下に置きました。しかし、これは国際社会からの批判を招き、日本は国際的に孤立しました。
- 第二次上海事変(1937年):日中戦争が本格化し、さらに南方進出を進めました。この頃から、日本の政策は「アジア解放」を名目に軍事的支配を広げることに集中しました。
国内では軍部が政治を掌握し、政党政治は事実上崩壊。軍事拡張が日本の国家政策の中心に据えられました。
太平洋戦争への道筋
1940年代初頭、日本はさらなる南方進出を目指し、フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)に進駐しました。
これに対し、アメリカ、イギリス、オランダなどが強く反発し、日本への石油や鉄鋼などの戦略物資の輸出を停止しました。
- 対米交渉の失敗:1941年には、アメリカとの交渉が行われましたが、最終的にハル・ノートを受け取り、外交的解決は不可能と判断されました。
- 真珠湾攻撃(1941年12月7日):これにより、日米関係は決裂。日本はアメリカとイギリスに対して戦争を開始し、太平洋戦争が勃発しました。
こうして日本は、国際連盟脱退から約8年後に世界大戦に突入し、戦局は拡大の一途をたどりました。
国際連盟脱退に関するデータと資料
国際連盟脱退に関するデータや資料について紹介します。
国際連盟の加盟国リストと脱退国一覧
国際連盟の全加盟国のリストと脱退した国々については、外務省が公開している資料や、国際連盟脱退をめぐる歴史的な文献が参考になります。特に1933年の日本の脱退は、当時の国際社会に与えた影響が大きく、日本以外にもドイツやイタリアがその後脱退しています。
以下は、国際連盟発足時の加盟国の一覧です。
国名 | 加盟年月日 |
アルゼンチン | 1919年7月18日 |
チリ | 1919年11月4日 |
ペルシア帝国 | 1919年11月21日 |
パラグアイ | 1919年12月26日 |
セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(ユーゴスラビア王国) | 1920年2月10日 |
ベネズエラ | 1920年3月3日 |
ノルウェー | 1920年3月5日 |
キューバ | 1920年3月8日 |
スイス | 1920年3月8日 |
デンマーク | 1920年3月8日 |
オランダ | 1920年3月9日 |
スウェーデン | 1920年3月9日 |
コロンビア | 1920年2月16日 |
エルサルバドル | 1920年3月10日 |
ギリシャ王国 | 1920年3月30日 |
ルーマニア王国 | 1920年4月7日 |
ポルトガル | 1920年4月8日 |
ハイチ | 1920年6月30日 |
リベリア | 1920年6月30日 |
中華民国 | 1920年7月16日 |
ニカラグア | 1920年11月3日 |
ホンジュラス | 1920年11月3日 |
また、以下は国際連盟から脱退した国の一覧です。なお、離脱には自主的な離脱(脱退)、連盟側からの離脱決議(除名)、政変による事実上の離脱(停止)の3種類あります。
国名 | 脱退年 | 脱退の種類 |
コスタリカ | 1925年 | 脱退 |
ブラジル | 1926年 | 脱退 |
アルバニア王国 | 1933年 | 停止 |
日本 | 1933年 | 脱退 |
ドイツ | 1933年 | 脱退 |
パラグアイ | 1935年 | 脱退 |
イタリア | 1937年 | 脱退 |
オーストリア連邦国 | 1938年 | 停止 |
スペイン | 1939年 | 脱退 |
ソビエト社会主義共和国連邦 | 1939年 | 除名 |
チェコスロバキア | 1939年 | 停止 |
ハンガリー王国 | 1939年 | 脱退 |
アルゼンチン | 1921年脱退 →1933年再加盟 | 脱退 |
日本政府の公式文書や記録
日本の国際連盟脱退に関する政府公式記録は、外務省や国立公文書館が提供しています。特に、斎藤実内閣が脱退手続きに至るまでの過程や、枢密院とのやり取りに関する記録が詳細に保存されています。
参考:国立公文書館
松岡洋右の演説映像や当時の新聞記事
松岡洋右の国際連盟脱退に関する演説映像は、NHKのアーカイブやYouTubeで一部視聴可能です。また、当時の新聞記事は、朝日新聞や毎日新聞のデジタルアーカイブで閲覧できます。これらの資料は、当時の日本国内外の反応を知るために有用です。
日本の国際連盟脱退に関するQ&A
Q1: 国際連盟とはどのような組織ですか?
A: 国際連盟は、第一次世界大戦後の1920年に設立された国際的な組織で、世界平和の維持と国際協力の促進を目的としていました。加盟国間の紛争を平和的に解決し、戦争を防止するための仕組みを提供していました。日本は創設メンバーの一国として常任理事国の地位を占めていました。
Q2: 日本が国際連盟から脱退したのはいつですか?
A: 日本は1933年2月24日に国際連盟からの脱退を決定し、正式な手続きが完了したのは1935年3月27日です。この間、日本は国際社会との関係を調整しながら、徐々に脱退に向かいました。
Q3: 日本が国際連盟を脱退した主な理由は何ですか?
A: 日本が国際連盟を脱退した主な理由は以下の通りです:
- 満洲事変への批判: 1931年に日本が中国東北部で満洲事変を引き起こしたことに対し、国際連盟はリットン報告書で日本の行動を批判しました。
- 日本の国益を守るため: 軍部は、国際社会の批判に屈することが国益に反すると考え、脱退を決断しました。
- 外交的妥協の拒否: 松岡洋右外相は、国際連盟での外交交渉による妥協ではなく、日本の独立した行動を重視しました。
Q4: リットン報告書とは何ですか?
A: リットン報告書は、1932年に国際連盟が派遣したリットン調査団がまとめた報告書で、満洲事変に関する調査結果を記したものです。この報告書では、日本の行動が侵略的であり、満洲国を国際的に承認するべきではないと勧告されました。
Q5: 国際連盟脱退後、日本はどのような影響を受けましたか?
A: 日本の国際連盟脱退は、以下のような影響をもたらしました:
- 国際的孤立: イギリスやアメリカなど主要国との関係が悪化し、経済的・外交的に孤立しました。
- 日独伊三国同盟への接近: 同じく孤立していたナチス・ドイツやイタリアと接近し、最終的に日独伊三国同盟を結成しました。
- 軍国主義の進展: 国内では軍部がさらに力を強め、外交よりも軍事力を重視する方向に進みました。
Q6: 国際連盟脱退に対する日本国内の反応はどうでしたか?
A: 国内の反応は賛否両論ありましたが、以下のように整理できます:
- 政府内: 一部の外交官や知識人は国際的孤立を懸念しましたが、軍部や強硬派は脱退を支持しました。
- 世論: 多くの国民は「国家の独立を守る決断」として脱退を支持し、松岡洋右の演説を英雄的な行為として評価しました。
Q7: 日本の国際連盟脱退は第二次世界大戦にどのように影響しましたか?
A: 国際連盟脱退は日本を孤立させ、ナチス・ドイツやイタリアと接近する要因となりました。1940年には日独伊三国同盟が結ばれ、日本は枢軸国側として第二次世界大戦に参戦しました。結果的に、日本はアジア太平洋地域での戦争を拡大し、最終的には1945年の敗戦につながりました。
Q8: 国際連盟脱退において松岡洋右の役割は何ですか?
A: 松岡洋右は当時の外務大臣であり、国際連盟総会で脱退を正式に表明した人物です。彼は軍部と協力し、外交交渉よりも日本の独立と国益を重視した政策を推進しました。彼の演説は国内で大きな反響を呼び、「国の尊厳を守った」として評価されました。
まとめ
日本の国際連盟脱退は、単なる外交的な転換にとどまらず、国内政治や国際関係に深刻な影響を及ぼしました。
松岡洋右外相の演説「国の尊厳を守るため」の一言は、当時の日本国民に強い印象を与え、国際的孤立を覚悟した決断でした。
脱退後、日本は軍事的拡張を進め、次第に独立性を強化しつつも、最終的には第二次世界大戦へと突入していきます。
この歴史的出来事は、今日の国際政治や日本の外交政策に対する理解を深めるための重要な鍵となります。
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