1936年に発生した二・二六事件は、昭和初期の日本における政治的混乱と軍部の影響力拡大を象徴する重大な事件です。この事件の中で、暗殺された要人の一人が斎藤実でした。
斎藤は第30代内閣総理大臣として、軍部と政治のバランスを取る役割を果たしていましたが、青年将校たちの標的とされ、悲劇的な最期を迎えました。
本記事では、斎藤実の生涯、直面した政治的課題、そして二・二六事件での斎藤の様子について解説します。
斎藤実の家系と生い立ち
斎藤実(さいとう まこと)は、1867年(慶応3年)に陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市)で生まれました。
斎藤家は奥州の名門であり、祖先は仙台藩の重臣であったと言われています。父・斎藤高庸(たかつね)は警察官であり、当時の武士から新しい時代の職業に転じた人物でした。
幼少期の斎藤実は厳格な家庭で育てられ、勤勉で真面目な性格が形成されます。西洋文明が日本に浸透しつつあった時代に成長した彼は、自然科学や軍事に関心を持ち、将来は海軍の道に進むことを決意しました。
これが後に彼を日本海軍の中心人物へと導く重要な要因となりました。
海軍時代の活躍と功績
斎藤実は、1883年に海軍兵学校に入学しました。ここでの彼は、優れた成績を収め、ほかの2名とともに「海軍の三秀才」と称されます。
同校を卒業後、海軍でのキャリアをスタートさせます。日清戦争後の日本海軍は、ロシアとの対立を深めていく中で強化を進めていました。
斎藤は日露戦争(1904年~1905年)の際、海軍次官として艦隊の補給や作戦計画の調整に尽力しました。特に、戦局が厳しい状況でも冷静に軍務を遂行したことで、上官や部下からの信頼を得ます。
日露戦争後はその手腕が評価され、大正時代には海軍大臣に就任。海軍内部の調整役を担い、軍と政府の橋渡し役として活躍しました。しかし、シーメンス事件(後述)の責任を取って予備役に編入。一時的に表舞台から姿を消します。
朝鮮総督としての統治政策
1919年、斎藤実は朝鮮総督に任命され、現役復帰しました。
当時、朝鮮半島は日本統治下にあり、経済・教育・社会インフラの整備が進められていましたが、反日運動も激化していました。斎藤は着任後、現地の情勢を安定させるために行政の効率化と経済の立て直しを優先しました。特に農業やインフラ整備に力を入れ、鉄道や港湾施設の拡充を推進しました。
また、教育制度の改革にも取り組み、朝鮮人学生の教育機会を広げる方針を打ち出しました。しかし、彼の政策は「融和的」と評価される一方、植民地支配の継続という点で批判も存在しています。
それでも、斎藤の総督在任中は比較的安定した統治が行われたとされています。
その後内閣総理大臣にまで昇り詰めますが、ほかに朝鮮総督から総理大臣になった軍人として寺内正毅もいました。寺内正毅については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・寺内正毅は何をした人か:その生涯と政策、後世の評価を解説(朝鮮総督府、米騒動など)
シーメンス事件:海軍大臣辞任に至るまで
1914年に発生したシーメンス事件が起こったとき、斎藤実は山本権兵衛内閣で海軍大臣を務めていました。シーメンス事件によって斎藤は一時的に政界を去らざるを得なくなってしまいました。
シーメンス事件とは?―日本海軍を揺るがした汚職スキャンダル
シーメンス事件は、1914年(大正3年)に発覚した日本海軍の汚職事件です。ドイツの電機メーカーであるシーメンス社とイギリスのヴァイカース社が、日本海軍の艦船購入契約に絡んで不正なリベート(賄賂)を提供していたことが明らかになりました。
当時の海軍上層部が関与していたこの事件は、軍部の威信を大きく揺るがしました。事件の発覚により、日本国内では軍部に対する信頼が失われ、政界にも影響を与えました。
斎藤実の役割―海軍大臣としての責任と立場
斎藤実は、山本権兵衛内閣で海軍大臣を務めていましたが、シーメンス事件が発覚した際、直接的な関与はありませんでした。しかし、海軍省のトップとして、事件がもたらした社会的混乱に対して責任を問われる立場に置かれました。
斎藤は公正な軍政を目指していましたが、事件の影響により海軍全体への批判が高まり、結果的に辞任を余儀なくされました。
彼にとって、この辞任は軍人としてのキャリアにおける大きな試練となりました。
辞任とその後―斎藤実と山本権兵衛内閣の崩壊
シーメンス事件により、斎藤実は1914年3月に海軍大臣を辞任しました。同時に、内閣総理大臣である山本権兵衛も事件の責任を取って総辞職します。
この事件は、軍部と政界の癒着や不正が問題視されるきっかけとなり、日本の政治体制に深刻な影響を与えました。
一方、斎藤は辞任から5年後には軍や政治の要職に復帰し、後に内閣総理大臣や朝鮮総督として日本の近代史に重要な役割を果たしました。
シーメンス事件で一時的に失った信頼を回復するため、彼はその後も多くの改革に尽力しました。
総理大臣としての斎藤実
1932年、五・一五事件で犬養首相が暗殺されます。その後を受けて斎藤実は総理大臣になりました。総理大臣としての斎藤実について解説します。
なお、犬養毅や五・一五事件については以下の記事で詳しく解説しています。
犬養毅とは何をした人か?憲政の神様としての生涯と業績、五一五事件暗殺の経緯とその最後の言葉まで徹底解説
五・一五事件とは?犬養毅暗殺から二・二六事件への影響まで詳しく解説:なぜ起きたのか、事件後の日本社会
第30代内閣総理大臣に就任
1932年(昭和7年)、斎藤実は第30代内閣総理大臣に就任しました。この時期の日本は、昭和恐慌からの経済的な回復を目指していましたが、国内では軍部の台頭が進み、政治と軍の関係が非常に複雑化していました。
斎藤内閣は、軍部の要求と政党政治の調整に苦慮する中で重要な外交問題に直面します。特に、ロンドン海軍軍縮条約の問題は、軍備制限を巡る国際的な駆け引きが絡み、国民や軍部の反発を招きました。
また、1933年には日本が国際連盟を脱退するという決断も下されます。これは、満州事変を巡る国際的な批判に対する日本の独立した外交姿勢を示したものであり、斎藤はその対応に追われました。
彼の内閣は、軍と外交の間でバランスを取ることを重視しましたが、次第に軍部の圧力が強まり、政権運営は困難を極めていきました。
なお、満州事変については以下の記事で詳しく解説しています。
満州事変とは?分かりやすく解説|いつ、どのように起きたか、そのきっかけと結果
1933年の国際連盟脱退と斎藤実:日本外交の転換点
1933年、斎藤実内閣において日本は国際連盟を脱退しました。これは太平洋戦争につながる非常に大きな転換点となりました。その経緯を解説します。
なお、国際連盟脱退の理由や松岡外相の発言の意図などを以下の記事でくわしく解説しています。
日本の国際連盟脱退:1933年の松岡洋右外相と斎藤実内閣による決断とその背景
国際連盟脱退の背景
1920年代以降、日本はワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約など、幣原喜重郎を中心とした協調外交を展開して列強との対立を避けてきました。
その風向きが変わったのが柳条湖事件からつづく満州事変です。
なお、ワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約、柳条湖事件については以下の記事で詳しく解説しています。
ワシントン海軍軍縮条約の背景と影響 – 原敬、加藤友三郎の貢献と日本の外交戦略
ロンドン海軍軍縮条約とは?補助艦の比率や全権交渉担当者、ワシントン条約との違いを徹底解説
柳条湖事件とは?いつ、どこで起きたのか、石原莞爾の関与とその後の日中関係を分かりやすく解説
満州事変とリットン調査団の報告
1931年に日本軍が満州事変を引き起こし、中国東北部(満州)を占領したことで、国際社会は日本に強い批判を向けました。日本は清朝最後の皇帝である溥儀を満州国の初代皇帝に即位させました。
国際連盟は事態の調査のためリットン調査団を派遣し、1932年に調査報告書を提出しました。報告書では、日本軍の行動を「侵略行為」と非難し、満州国の独立を認めないことを勧告しました。
この勧告に対し、日本は国際連盟内で孤立することになりました。
国際連盟の満州国否認決議
1933年2月、国際連盟はリットン報告書を基に、日本の満州国支配を認めない満州国否認決議を採択しました。この決議は、満場一致に近い形で可決され、日本の国際的孤立が決定的になりました。
国際連盟脱退がもたらした影響
国際連盟脱退によって日本には大きな影響がありました。
日本の国際的孤立
国際連盟脱退により、日本は国際社会から孤立しました。外交交渉による紛争解決が困難となり、経済的にも欧米諸国からの圧力が強まりました。
軍国主義への加速
国際連盟脱退は、軍部の発言力をさらに強化させる結果となりました。斎藤内閣が目指していた軍部と政党政治のバランスは崩れ、以降、軍部が政府内で主導権を握るようになり、日本は軍国主義へと進んでいきました。
第二次世界大戦への布石
国際連盟からの脱退は、日本が国際協調を放棄し、独自の帝国主義的政策を進める転換点となりました。その結果、1937年に日中戦争、そして1941年に太平洋戦争へとつながる道筋を形成しました。
松岡洋右外相による国際連盟脱退の決定までのいきさつ
国際連盟の総会には松岡外相が派遣されました。総会での国際連盟脱退までの経緯を解説します。
松岡洋右の演説と決意
1933年2月24日、スイス・ジュネーヴで行われた国際連盟総会において、日本の代表であった松岡洋右(まつおかようすけ)は、日本に対する決議に反論しました。松岡(日本側)の主張は以下のようなものでした。
- 日本の行動は自衛であり、アジアの平和を守るためであった。
- 満州国は日本にとって必要不可欠な存在であり、その独立は正当である。
しかし、総会で日本の主張が認められなかったため、松岡は「これ以上国際連盟に留まる理由はない」とし、同日、国際連盟からの脱退を表明しました。
斎藤実内閣の対応
当時の内閣総理大臣であった斎藤実(さいとうまこと)は、1932年に五・一五事件で暗殺された犬養毅の後を受け、第30代総理大臣として政権を担っていました。斎藤内閣は、軍部との調整役として機能しつつも、外交政策においても重要な局面を迎えていました。
斎藤実内閣は、満州国の維持を最優先事項とし、国際社会からの批判よりも国益と軍部の意向を重視しました。
そのため、国際連盟脱退という決断も、内閣として容認せざるを得なかったのです。
軍部の圧力と政治的決断
斎藤実は、軍部が外交・内政に強い影響を与える状況に置かれていました。特に陸軍は、満州事変以降、国際的な協調路線よりも孤立してでも満州の支配を維持するべきだと強硬に主張していました。
斎藤は、軍部との衝突を避けるため、国際連盟脱退という外交的孤立の決断を支持しましたが、これは日本の国際的な協調路線の終わりを意味するものでした。
斎藤実の評価とその後
斎藤実は、内閣総理大臣として軍部と政党のバランスを保つことに尽力しましたが、軍部の圧力に屈する形で国際連盟脱退を容認したことは、彼の内閣の限界を示しました。
その後、斎藤実は1936年の二・二六事件で暗殺され、日本の政治はさらに軍国主義へと傾斜していきました。
二・二六事件の発生
1936年(昭和11年)2月26日に陸軍の青年将校たちがクーデター未遂事件を起こします。この事件で斎藤実は暗殺されます。この事件を二・二六事件と呼びます。
なお、二・二六事件の詳細については以下の記事で解説しています。
二・二六事件の真相と影響: 日本政治を揺るがした皇道派・青年将校の反乱はなぜ起きたのか
二・二六事件とは?
この事件は、陸軍内の「皇道派」と呼ばれるグループが起こした事件です。彼らは昭和天皇に忠誠を誓いながらも、現状の政府や政財界の腐敗を排除し、「昭和維新」を実現することを目的としていました。
青年将校たちは「国家改造」を掲げ、貧困や農村の疲弊を解決できない現状を変えるべく行動を開始しました。彼らは約1,400名の兵士を率いて東京市内の要所を占拠し、首相官邸や内大臣官邸を襲撃。政府高官の排除を目指しました。
しかし、事件は3日後に鎮圧され、計画は失敗。将校らは逮捕され、軍法会議で処罰されました。
この事件は、軍部が政治に大きな影響力を持つ契機となり、日本が軍国主義へと進むきっかけとなったと言われています。
なお、陸軍内には皇道派と統制派の2つのグループがありました。それぞれの派閥の思想やリーダー、日本の政治や社会に与えた影響を以下の記事でくわしく解説しています。
皇道派と統制派の違いを徹底解説|荒木貞夫や永田鉄山、二・二六事件との関係から日本の軍国主義まで
斎藤実の暗殺
二・二六事件当日、斎藤実は内大臣官邸にて襲撃を受け、暗殺されました。享年77歳。
青年将校たち(特に皇道派)にとって斎藤実は「昭和維新」を妨げる象徴的な存在とみなされていました。内大臣という要職を歴任し、内大臣として軍部との調整役を果たしていた彼は、保守的な勢力の象徴として標的にされました。
2月26日午前6時30分ごろ、将校たちが官邸を襲撃し、銃撃を受けた斎藤は即死しました。その後、事件を受けた政府は動揺し、軍内部でも処罰を巡る議論が続きました。
斎藤の死は政界に衝撃を与え、日本国内の軍事政権化が加速する一因となりました。
死後、斎藤には従一位と大勲位菊花大綬章が追贈され、その功績が改めて評価されました。
二・二六事件が起こった背景
二・二六事件(1936年2月26日)は、日本の昭和初期における政治的不安定さと経済的困窮が複雑に絡み合った結果として発生しました。
この時期の日本は、内外の様々な要因が重なり、クーデター未遂事件を引き起こす土壌が形成されていました。
昭和初期の政治不安と軍部の影響力拡大
昭和初期の日本では、政党政治の弱体化が進行し、軍部が政治に対して強い影響力を持つようになりました。特に、1929年から始まった世界恐慌による経済的混乱が、政府への国民の不満を高めました。
これに伴い、政治的な指導力を発揮できない政党内閣に対する信頼が失われ、軍部が国家の再建を主導するべきだという考えが広がりました。
なお、世界恐慌への経済対策として浜口雄幸内閣は金輸出解禁を行い、短期的には効果が出ず、東京駅での暗殺未遂事件に発展しました。浜口雄幸については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・浜口雄幸の生涯と政治活動:東京駅での暗殺の背景、金解禁政策の効果を解説
軍部内部では、天皇親政を復活させるべきだとする若手将校たちが、政府要人を排除することで「昭和維新」を実現しようと画策します。このような考え方は、陸軍内の青年将校を中心に広がり、彼らの政治的行動が激化するきっかけとなりました。
経済恐慌と農村の困窮がもたらした不満
1929年に始まった世界恐慌は、日本経済に深刻な打撃を与えました。特に、農村部では深刻な貧困と経済的困窮が広がり、農家の生活は破綻寸前に追い込まれました。
米価が暴落し、農産物を売っても生活を維持できない農民が増えたため、地方出身の青年将校たちは、農村の困窮に強い危機感を抱きます。それが皇道派の思想の原点にもなりました。
彼らは、腐敗した政党政治が農村を救えないと感じ、武力をもって政治を刷新し、農村を救済しようと決意しました。
このように、経済的不満と社会的格差が、軍部青年将校の行動を後押しする要因となりました。
皇道派と統制派の対立
二・二六事件は、陸軍内の派閥争いも背景にあります。特に、皇道派と統制派の対立が事件発生の引き金となりました。
- 皇道派:天皇親政を理想とし、国家改造を目指してクーデターによる改革を主張しました。
彼らは、政府や財界、上層部の軍人を「国賊」とみなし、排除することが必要だと考えていました。 - 統制派:経済や軍事の国家統制を重視し、クーデターではなく、合法的手段での国家運営を主張しました。
彼らは、陸軍の中枢で官僚的に力を持つ存在であり、軍の統制を強化することで国家を再建しようとしました。
この派閥間の対立が激化した結果、皇道派の青年将校たちは、自らの理想を実現するためにクーデターを決行するに至ったのです。
斎藤実が遺したもの
斎藤実が日本の近代史に残したものは、軍人・政治家としての多岐にわたる功績と、悲劇的な最期から学ぶ教訓です。
海軍大臣、朝鮮総督、総理大臣、内大臣など数々の重要な役職を歴任し、外交・軍事・内政にわたって国家の発展に寄与しました。特に日露戦争後の海軍整備や朝鮮半島での政策は、彼の手腕を示すものです。
一方、総理大臣としては、軍と政治のバランスを取ることに苦心し、最終的に二・二六事件によって命を落としました。
斎藤実の生涯は、軍部の政治介入がもたらす危険性や、民主主義と軍国主義の緊張関係を象徴しています。そのため、彼の人生と最期は、日本が戦前の政治体制を見直す上で重要な教訓となっています。
斎藤実に関するQ&A
Q1. 斎藤実とはどのような人物ですか?
斎藤実(さいとう まこと、1858年 – 1936年)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の海軍軍人・政治家です。海軍大臣や朝鮮総督を歴任し、最終的に第30代内閣総理大臣(1932年 – 1934年)に就任しました。軍部と政党政治の調整役として活躍した一方、二・二六事件で暗殺されました。
Q2. 斎藤実の出身地はどこですか?
斎藤実は、岩手県水沢市(現・奥州市水沢区)で生まれました。彼の家系は仙台藩の重臣に連なる名門でした。
Q3. 斎藤実はどのようにして海軍に関わるようになったのですか?
斎藤実は、1879年に海軍兵学寮に入学し、海軍士官としてのキャリアをスタートしました。日露戦争では、海軍次官として戦略的に重要な役割を果たし、その後、海軍大臣に就任しました。
Q4. 斎藤実はどのような功績で朝鮮総督に任命されたのですか?
斎藤実は、大正時代の1929年から1931年まで第8代朝鮮総督を務めました。彼は朝鮮半島において、インフラ整備や行政改革を進め、現地の経済発展に寄与したとされています。
Q5. 斎藤実が総理大臣に就任した経緯は?
1932年、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺された後、軍部と政党を調整できる人物として斎藤実が総理大臣に指名されました。彼の内閣は、ロンドン海軍軍縮条約の問題や国際連盟脱退など、外交と軍事に関わる重要な課題に直面しました。
Q6. 二・二六事件とは何ですか?
二・二六事件は、1936年2月26日に陸軍の青年将校たちが起こしたクーデター未遂事件です。彼らは昭和天皇の名のもとに「昭和維新」を掲げ、政府要人の排除と軍部主導の政治改革を目指しました。
Q7. 二・二六事件で斎藤実はどのように暗殺されましたか?
1936年2月26日、斎藤実は内大臣官邸で襲撃され、青年将校らによって暗殺されました。享年77歳。彼の死は政界と社会に大きな衝撃を与えました。
Q8. 斎藤実の死後、どのように評価されましたか?
斎藤実は死後、従一位と大勲位菊花大綬章が追贈されました。彼の軍人・政治家としての功績は一定の評価を受ける一方で、二・二六事件を防げなかった点についても議論されています。
Q9. 斎藤実が歴史に与えた教訓は?
斎藤実の生涯は、軍部と政治のバランスを取る難しさを象徴しています。特に、軍部の政治介入をどのように抑制するべきかという課題は、彼の死後も日本の近代史における重要な教訓として語り継がれています。
Q10. 斎藤実に関連する史跡や資料館はどこにありますか?
岩手県奥州市には、斎藤実の功績を記念する斎藤実記念館があります。また、彼に関する展示や資料は、地元の図書館や歴史資料館でも見ることができます。
まとめ
斎藤実は、海軍出身の政治家として総理大臣や朝鮮総督を歴任し、日本の近代史に大きな足跡を残しました。しかし、彼の生涯は二・二六事件によって悲劇的に幕を閉じました。
軍部の台頭や経済的不安が引き起こした事件は、昭和初期の日本社会が抱える矛盾と危機を浮き彫りにしました。
斎藤実の人生とその最期は、現在の私たちに、国家と軍部の関係や政治の在り方について深く考えさせる重要な教訓を与えています。
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