皇道派と統制派は昭和初期の日本陸軍を二分した重要な派閥です。
本記事では、両派閥の誕生から思想的背景、代表的人物である荒木貞夫や永田鉄山、そして二・二六事件や真崎甚三郎との関係までを詳しく解説します。
また、犬養内閣や「統帥権干犯」問題なども含め、日本の軍国主義化にどのように関与したのかを説明します。
皇道派と統制派とは何か?その概要と誕生の背景
皇道派(こうどうは)と統制派(とうせいは)は、昭和初期に日本陸軍内で生まれた二大派閥であり、政治的・軍事的なイデオロギーの違いから激しく対立しました。
この対立は、昭和期の日本の政治、特に軍部の権力構造に深い影響を与えました。五・一五事件(1932年)や二・二六事件(1936年)といった軍事クーデターにもつながっています。
各派閥が誕生した背景やその思想内容をまとめました。
皇道派の誕生と思想的背景
皇道派は、大正から昭和初期にかけて日本陸軍内で誕生した急進派のグループです。
その名称は「皇道」、すなわち「天皇の意志に基づく国家統治」を意味し、「昭和維新」と称される軍主導の国家改造を目標としていました。
背景
皇道派が誕生した背景には、第一次世界大戦後の社会不安がありました。戦後の不況や農村の疲弊により、社会は混乱していました。
さらに1910年代~1920年代に盛んになった大正デモクラシーの限界も要因のひとつでした。
護憲運動が盛んになり、日本国内で議会政治が広まりました。ところが政治の腐敗や浜口雄幸内閣の経済政策の失敗に対する失望が広がり、軍部による統治が期待されるようになりました。
なお、浜口雄幸内閣については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・浜口雄幸の生涯と政治活動:東京駅での暗殺の背景、金解禁政策の効果を解説
皇道派の思想
皇道派の思想をまとめると、以下の3点です。
統制派の誕生と思想的背景
一方の統制派は、皇道派に対抗する形で生まれた陸軍内の現実主義派です。
統制派統制派は軍事だけでなく、経済や行政の統制を通じて国力を強化することを重視しました。
背景
統制派の誕生した背景には世界恐慌の影響がありました。1929年に始まった世界恐慌は日本経済にも大きな打撃を与え、経済政策の重要性が増しました。
さらに国内経済を活性化させるには、アメリカをはじめとする列強との競争に勝つ必要があると言う考えが広まりつつありました。次の戦争に備えるためには、国家全体を動員する体制が必要と考えられました。
統制派の思想
統制派の思想をまとめると以下の4点です。
皇道派と統制派の違いとは?
皇道派と統制派はどちらも軍部内の派閥ですが、違いはありました。
政治・経済政策の違い
皇道派は天皇を中心に据え、政治に直接的に介入することで急進的な国家改革を目指しました。特に農村復興や伝統的な価値観の回復を重視し、都市化や工業化に対しては否定的でした。
一方、統制派は国家総動員体制の構築を掲げ、軍部と官僚が協力して経済政策を推進し、工業化と都市部の発展を重視しました。
軍部内での役割と対立構造
皇道派は、主に青年将校や農村出身者を中心に構成され、軍内でも下級将校層からの支持が厚かったのが特徴です。彼らは二・二六事件などのクーデターを通じて軍事的に国家を変革しようとしました。
一方、統制派は陸軍中央部を掌握しており、軍内の幹部やエリート層からの支持がありました。彼らは計画的な改革を重視し、暴力的な手段を避ける姿勢を取りました。
なお、二・二六事件については以下の記事で詳しく解説しています。
二・二六事件の真相と影響: 日本政治を揺るがした皇道派・青年将校の反乱はなぜ起きたのか
皇道派の主要人物とその役割
皇道派の思想リーダーとして、荒木貞夫や真崎甚三郎が挙げられます。この二人の考え方や皇道派内における役割を解説します。
【参考】
国立国会図書館「荒木貞夫」
10M TV「真崎甚三郎更迭など皇道派追放への反発かつ二・二六の契機」
荒木貞夫(あらき さだお):皇道派の象徴的存在
荒木貞夫は、昭和初期の日本陸軍内で最も影響力を持った皇道派のリーダーであり皇道派の象徴的な人物です。陸軍大臣としてその思想を陸軍内外に広めました。
1877年に福岡県に生まれ、陸軍士官学校を卒業したエリート軍人です。第一次世界大戦後の混乱期に軍内で台頭しました。犬養内閣や斎藤内閣で陸軍大臣を務めており、「昭和維新」を唱えて軍主導による急進的な国家改革を目指しました。
荒木貞夫の役割と影響
荒木は天皇を神聖視し、軍が天皇の意志を直接的に実行するべきだと主張しましたこれは、天皇を中心に据えた統治体制を強化し、政治的腐敗を排除することを目的とした急進的な改革でした。
五・一五事件に直接関与していないものの、青年将校たちに大きな影響を与えたとして一時失脚。1934年、健康上の理由で辞任しましたが、皇道派の精神的支柱として軍内での影響力を保ち続けました。
なお、五・一五事件については以下の記事で詳しく解説しています。
五・一五事件とは?犬養毅暗殺から二・二六事件への影響まで詳しく解説:なぜ起きたのか、事件後の日本社会
真崎甚三郎(まさき じんざぶろう):二・二六事件との関係
真崎甚三郎は皇道派の理論的リーダーであり、二・二六事件(1936年)の背後で青年将校たちに思想的な影響を与えた人物です。
真崎は1876年に熊本県で生まれ、陸軍士官学校を卒業した後、陸軍教育総監として若手将校の教育に力を注ぎました。
真崎甚三郎の役割と影響
真崎は「軍は天皇のためにあるべきだ」という皇道派の思想を青年将校たちに植え付け、彼らが後に二・二六事件を引き起こす土壌を作りました。真崎が務めた陸軍教育総監は、将校たちに思想を浸透させる上で重要であり、真崎が皇道派において理論的支柱とされた理由の一つです。
真崎自身は二・二六事件に直接関与していませんでしたが、思想的指導者と見なされ、事件後に軍から追放されました。この事件をきっかけに皇道派は軍内で勢力を失い、真崎も退役を余儀なくされ、皇道派の勢力は衰退しました。
なお、二・二六事件については以下の記事で詳しく解説しています。
二・二六事件の真相と影響: 日本政治を揺るがした皇道派・青年将校の反乱はなぜ起きたのか
統制派の主要人物とその役割
一方の統制派には、永田鉄山や、後に総理大臣になった東条英機といった主要人物がいました。
【参考】
日経BizGate「永田鉄山なら負ける戦争を阻止できたか 日本陸軍の研究(下)」
文春オンライン「「太平洋戦争を止められた」エリート軍人・永田鉄山は本当に歴史を変えることができたのか」
現代ビジネス「血染めの軍服に誓った東條英機」
永田鉄山(ながた てつざん):革新官僚と軍部の近代化
永田鉄山は統制派を代表する軍人であり、陸軍内での軍部の近代化と国家総動員体制の構築に大きな役割を果たしました。
1892年に山口県で生まれた永田は、陸軍士官学校や陸軍大学校を首席で卒業し、知性と戦略的思考に優れたエリート軍人でした。
永田鉄山の役割と影響
永田は軍事だけでなく、経済や行政を一体化させた「国家総力戦」の準備を進めました。これは後の「国家総動員法」(1938年)につながります。
永田は、経済官僚や軍需産業と連携し、工業化を推進する政策を打ち立てました。これにより、日本の軍需体制は近代化され、日中戦争や太平洋戦争に備える体制が整えられました。
永田は皇道派の急進的なクーデター計画に反対し、統制派の立場から現実的な政策を推進しました。そのため、1935年、皇道派の青年将校によって陸軍省内で暗殺されました(永田事件もしくは相沢事件)。
この事件は、皇道派と統制派の対立が頂点に達した象徴的な出来事とされています。
東條英機(とうじょう ひでき):統制派から総理大臣へ
東條英機は統制派を代表する軍人であり、後に内閣総理大臣として日本の戦争指導を担った人物です。
1884年に東京で生まれ、陸軍士官学校や陸軍大学校を卒業した後、満州事変や日中戦争で重要な役割を果たしました。
なお、満州事変については以下の記事で詳しく解説しています。
満州事変とは?分かりやすく解説|いつ、どのように起きたか、そのきっかけと結果
東條英機の役割と影響
東條は満州事変において陸軍の作戦を指揮し、溥儀を皇帝とした満州国の建国を支援しました。これにより、満州を日本の勢力下に置くことに成功しました。
※溥儀についてはこちらの記事でくわしく解説しています。
東條は統制派として、軍と内閣の一体化を進め、政治と軍事の連携を強化しました。これにより、軍部の発言力が一層高まりました。
さらに第二次世界大戦中に総理大臣として日本を指導し、真珠湾攻撃を決定するなど、戦争遂行に深く関与しました。戦後、東條は極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として裁かれ、1948年に処刑されました。
東條の政治的・軍事的リーダーシップは、統制派の思想を反映したものであり、日本の戦争遂行体制を統一する役割を担いましたが、結果的には敗戦に至るまでの決定に大きく関与しました。
二・二六事件と皇道派・統制派の関係
軍部内での対立は二・二六事件というクーデターにもつながりました。皇道派・統制派が二・二六事件にどのようにつながっていったのかを解説します。
なお、クーデターについては以下の記事で詳しく解説しています。
クーデターとは何か:クーデターの例や起きる原因とその影響、防止策を分かりやすく解説
二・二六事件の発生と経緯
二・二六事件(1936年2月26日)は、皇道派に属する青年将校たちが、腐敗した政治と軍部内の対立に不満を抱き、東京でクーデターを起こした事件です。
背景には、昭和維新運動を通じて日本を天皇親政の下に再編しようとする皇道派の思想がありました。
事件は、陸軍第一師団の一部の青年将校約1400人が蜂起し、首相官邸や大蔵省などの政府中枢を占拠する形で始まりました。将校たちは、当時の首相・岡田啓介、内大臣・斎藤実、蔵相・高橋是清らの暗殺を企て、実際に高橋と斎藤を殺害しました。しかし、岡田首相は命を取り留め、事件は完全な成功には至りませんでした。
青年将校たちの最終的な目標は、軍と天皇による直接支配を確立することであり、彼らは天皇がクーデターを支持すると信じていました。
しかし、昭和天皇はクーデターを厳しく非難し、鎮圧命令を下しました。結果として、事件は3日後に鎮圧され、関係者は逮捕・処罰されました。
事件後の皇道派と統制派の運命
二・二六事件の失敗は、皇道派にとって致命的な打撃となりました。
事件の背後に皇道派の指導者たちがいると見なされ、真崎甚三郎をはじめとする多くの皇道派将校は予備役に編入され、陸軍内での影響力を失いました。
一方、統制派はこの事件をきっかけに軍部内での支配力を強化しました。統制派は、国家総動員体制を推進するため、軍部の一体化と政治・経済の統制を強調しており、事件後の陸軍内の混乱を収束する形でその立場を確立しました。
特に、統制派のリーダーである東條英機らが、皇道派の排除を進めるとともに、軍部内での実権を握りました。
この結果、陸軍はより一層政治と経済の統制を進め、日中戦争や太平洋戦争への道を進むことになりました。
皇道派は事件後に壊滅的な打撃を受け、軍内での勢力は衰退し、再び表舞台に立つことはありませんでした。
犬養内閣と「統帥権干犯」問題の影響
軍部による内閣への圧力として、「統帥権干犯問題」があります。
統帥権干犯問題の発端
統帥権干犯問題とは、天皇が直接指揮する権限である「統帥権」が、内閣や政党によって侵害されることを指します。この問題は、1930年に発生したロンドン海軍軍縮条約をめぐる対立から始まりました。
当時、海軍軍令部は軍備の削減に強く反対していましたが、外務大臣の幣原喜重郎や首相の浜口雄幸は軍縮条約を締結しました。
※「協調外交」を推進した幣原喜重郎についてはこちらの記事で解説しています。
これに対し、政友会の犬養毅は「統帥権が内閣によって侵害された」と主張し、浜口内閣を強く批判しました。
この論調が軍部に影響され、結果的に「統帥権干犯である」という理由で犬養毅も五・一五事件で暗殺されるという結果になっています。
※犬養毅についてはこちらの記事で解説しています。
統帥権干犯問題は、軍部が政府に対する影響力を強化するための重要な論点となり、政党政治を攻撃する材料として利用されました。結果的に、統帥権干犯問題は軍部の政治的発言力を高めるきっかけとなり、以降、軍部は政治に対して強い影響を持つようになりました。
なお、五・一五事件については以下の記事で詳しく解説しています。
五・一五事件とは?犬養毅暗殺から二・二六事件への影響まで詳しく解説:なぜ起きたのか、事件後の日本社会
犬養毅内閣が直面した軍部の圧力
犬養毅内閣(1931年~1932年)は、満州事変の最中に軍部の圧力と統帥権干犯問題に直面しました。
1931年に関東軍が満州事変を引き起こし、現地で軍事行動を展開しましたが、政府はこれを事前に知らされておらず、外交的にも苦境に立たされました。
当時の若槻内閣は満州事変が原因で失脚。さらに後を受けた犬養内閣も軍部を抑制しようとしましたが、陸軍の独断行動を抑えることができませんでした。
なお、関東軍については以下の記事で詳しく解説しています。
関東軍の歴史と暴走の真実:満州事変からノモンハン事件まで徹底解説します
また、軍部は満州での行動を正当化するため、政府に対して強い圧力をかけ、外交政策を軍事行動に従わせようとしました。犬養は和平交渉や外交的解決を模索しましたが、軍部の独断専行と強硬な態度によって内閣は機能不全に陥りました。
最終的に、犬養内閣は1932年に五・一五事件で青年将校によって暗殺され、政党政治は崩壊し、軍部が政治の主導権を握る時代が到来しました。
この事件は、軍部と内閣の対立が決定的に深まった象徴的な出来事であり、以降の日本政治において軍部が圧倒的な影響力を持つようになる転換点となりました。
皇道派・統制派が日本の軍国主義化に与えた影響
皇道派・統制派は昭和の日本を軍国主義へと変えていきました。その影響力をまとめました。
【参考】
立命館大学図書館『知識人の自己形成Ⅱ』「満洲事変と2.26事件」
NHK高校講座「日中戦争」
昭和期の軍事政策と政治的影響
昭和期(1926年~1989年)の初期は、皇道派と統制派の対立が日本の軍事政策と政治に大きな影響を与えました。
皇道派は、「昭和維新」を掲げ、天皇を中心とする軍事独裁体制の樹立を目指していました。特に、農村の貧困や都市部の労働問題を解決するため、急進的な社会改革と軍事力を用いた国内統制を主張しました。
彼らは、汚職や政党政治を打倒することが軍国主義国家への道と考えていました。
一方、統制派は国家総動員体制の確立を主導し、軍部の一元的な支配を目指しました。彼らは、経済・政治の統制を通じて国家の軍事力を強化し、国内資源を戦争に集中させる計画経済を推進しました。
統制派の思想は、1938年の国家総動員法や大政翼賛会の設立に反映され、政党の解散と軍部主導の統治へとつながりました。
政党政治の終焉
この結果、政党政治が終焉を迎え、日本は軍国主義国家として太平洋戦争に突き進むことになりました。
特に、統制派が主導する軍事経済政策は、戦争遂行能力を強化し、満州事変や日中戦争を経て、アジア太平洋戦争に突入する基盤となりました。
日本の戦時体制への移行
皇道派と統制派の対立とその後の統制派の台頭は、日本の戦時体制への移行を加速させました。
1936年の二・二六事件で皇道派が排除された後、統制派が陸軍内部で圧倒的な支配力を確立しました。統制派は、戦争遂行を国家の最優先課題とし、経済・産業・労働力を戦争に動員するための政策を次々と打ち出しました。
国家総動員法(1938年)はその象徴であり、国民生活を軍事目的に合わせて統制し、自由な経済活動や市民の権利は大幅に制限されました。また、資源の配分、物資の統制、労働力の徴用が制度化され、日本社会は完全に戦争体制へと移行しました。
さらに、満州国の設立や日中戦争の拡大を背景に、統制派は軍部と産業界の一体化を進め、軍需産業の飛躍的な発展を遂げました。これは、戦時下の日本経済を支え、1941年の太平洋戦争開戦につながる要因となりました。
この過程で、日本は軍事力に依存した国家運営を行い、国内外での戦争を拡大することで、最終的に敗戦への道をたどることになりました。
現代における皇道派と統制派の評価と意義
現代において、皇道派と統制派の評価は研究者たちによって行われています。
参考:堀田慎一郎『一九三〇年代における日本政治史の研究 : 陸軍の政治的台頭と元老・重臣勢力』
歴史的視点からの両派閥の再評価
戦後の歴史研究において、皇道派と統制派はそれぞれ異なる観点から再評価されています。
皇道派は、軍国主義的な思想を持ちながらも、腐敗した政党政治を改革しようとした理想主義的な一面が指摘されています。特に、農村の救済や社会的平等を掲げた姿勢は、ある種の民衆主義的な要素を含んでいたと評価されています。
しかし、急進的なクーデター路線は現実的な解決策を欠き、二・二六事件の失敗によってその限界が露呈しました。
一方、統制派は軍事力と経済の効率的な統合を推進し、国家総力戦体制を構築しました。現代では、その政策が日本の近代化や工業化を加速させた側面も評価されています。
特に、官僚と軍部が一体となった計画経済は、戦後の高度経済成長に通じる要素を持っていました。
しかし、軍部主導の強権的な政治運営や、国民の自由を奪った戦時体制は、民主主義の否定と軍国主義の暴走を招いたとして批判されています。
戦後日本への影響
戦後日本において、皇道派と統制派の影響は、政治・経済・社会の各分野に広がっています。
皇道派の理想主義や農村重視の政策は、戦後の農地改革や地方自治の確立に間接的に影響を与えたと考えられています。一方、統制派が推進した官僚主導の計画経済や統制経済の手法は、戦後の日本が採用した産業政策や経済復興のモデルに影響を及ぼしました。
また、統制派のリーダーであった東條英機が戦後の東京裁判で裁かれたことに象徴されるように、軍国主義への反省が戦後日本の平和憲法の成立や非軍事化政策に結びつきました。
今日の日本においては、両派の歴史的意義を学ぶことで、軍部が政治に過度に関与することの危険性や、民主主義と軍事の関係を考える教訓として位置づけられています。
皇道派と統制派の対立とその影響を知ることは、戦前の日本がどのようにして軍国主義国家へと変貌したのかを理解するための重要な鍵となります。
皇道派・統制派に関するQ&A
Q1. 皇道派と統制派とは何ですか?
A1. 皇道派と統制派は、昭和初期の日本陸軍内で対立した二つの派閥です。
- 皇道派は、天皇を中心とした「昭和維新」を目指し、急進的な軍事クーデターによる国家改革を主張しました。
- 統制派は、軍事力と経済を統合する計画経済による国力強化と軍部の一元的な統治を目指しました。
Q2. 皇道派と統制派の主な違いは何ですか?
A2. 主な違いは以下の通りです:
項目 | 皇道派 | 統制派 |
主張 | 昭和維新による天皇中心の独裁体制 | 計画経済と軍部一元化による国力強化 |
政策 | 農村救済・社会改革 | 産業統制・国家総動員体制 |
手段 | クーデターによる急進的改革 | 法律と官僚を活用した漸進的改革 |
象徴的人物 | 荒木貞夫、真崎甚三郎 | 永田鉄山、東條英機 |
Q3. 二・二六事件は皇道派と統制派にどのような影響を与えましたか?
A3. 二・二六事件(1936年)は、皇道派の青年将校が主導したクーデター未遂事件です。
- 皇道派は事件の失敗により政治的影響力を喪失し、多くの幹部が陸軍から追放されました。
- 一方で、統制派はこの事件を契機に陸軍内での支配力を強化し、以後の日本の戦時政策を主導するようになりました。
Q4. 統制派を代表する人物で、戦後に影響を与えたのは誰ですか?
A4. 東條英機(とうじょう ひでき)が統制派を代表する人物の一人です。
- 1941年に内閣総理大臣に就任し、太平洋戦争開戦を主導しました。
- 戦後、東京裁判でA級戦犯として裁かれ、処刑されましたが、彼の政策は戦後日本の経済復興に影響を与えた面もあります。
Q5. 「統帥権干犯問題」とは何ですか?
A5. 統帥権干犯問題は、1930年に犬養毅がロンドン海軍軍縮条約について浜口内閣を批判したときに持ち出した政治問題です。
- 統帥権とは、天皇が持つ軍の指揮権を意味しますが、政府が軍事政策に関与しようとした際に、陸軍がこれを「天皇の統帥権を侵害するもの」として反発しました。
- この問題により、政府は軍部の支持を失い、政党政治は徐々に終焉を迎えました。
Q6. 皇道派と統制派は日本の軍国主義化にどのような影響を与えましたか?
A6. 皇道派と統制派は、それぞれ異なる形で日本の軍国主義化を推進しました。
- 皇道派は、クーデターを通じた国家改革を試みましたが、失敗しました。
- 統制派は、計画経済と国家総動員体制を整備し、日本を戦時体制へ移行させました。これにより、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと進む軍国主義的政策が加速しました。
Q7. 現代において皇道派と統制派はどのように評価されていますか?
A7. 現代では、皇道派と統制派は以下のように評価されています:
- 皇道派は、社会改革を目指した理想主義的側面が評価される一方、クーデターという非民主的手段を採った点が批判されています。
- 統制派は、日本の戦時経済を効率化した点が評価される一方、軍部独裁による民主主義の破壊が強く批判されています。
まとめ
昭和期の日本において、皇道派と統制派は軍国主義化を推進した重要な勢力でした。
皇道派は、天皇を中心とした国家改造を目指し、昭和維新を掲げましたが、二・二六事件の失敗によりその影響力を失いました。
一方、統制派は、国家総動員法の制定や計画経済の導入を通じて、戦時体制を構築し、軍部主導の政治体制を確立しました。
戦後、両派閥の思想や政策は、日本社会や政治に一定の影響を残しており、現代でもその歴史的意義が再評価されています。
【参考】
デジタル版 港区の歩み – 二・二六事件
日本史事典.com「【皇道派と統制派の違い】簡単にわかりやすく解説!!それぞれの特徴・共通点について」
立命館大学図書館「満洲事変と2.26事件」
ジャパンナレッジ「二・二六事件」
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