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犬養毅とは何をした人か?憲政の神様としての生涯と業績、五一五事件暗殺の経緯とその最後の言葉まで徹底解説

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犬養毅 歴代首相の紹介
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犬養毅(いぬかい つよし)は、昭和初期における日本の重要な政治家であり、第29代内閣総理大臣として知られています。彼の政治キャリアは日本の近代史に大きな影響を与えましたが、その生涯は五・一五事件という悲劇的な暗殺によって突然終わりを迎えました。

本記事では、犬養毅の生涯、彼が行った政策や最後の瞬間、そして「何をした人」なのかを詳しく解説します。

また、彼と浜口雄幸の「統帥権干犯問題」との関係にも触れ、日本の政治にどのような影響を及ぼしたのかを掘り下げていきます。

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犬養毅の生涯とその歩み

幼少期と教育

犬養毅は1855年、岡山県岡山市に生まれました。武士階級の家に生まれた彼は、幼少期から学問に優れ、読書を好む少年でした。

特に儒教思想に影響を受け、道徳と倫理を重視する性格が形成されました。やがて、漢学塾や地元の学校で学び、優秀な成績を収めました。

その後、東京へと出て慶應義塾大学で学び、慶應出身の初の総理大臣になりました。

犬養の幼少期と教育は、彼の後の政治家としての活動に大きく影響を与えました。

政治家としてのキャリアの始まり

犬養毅は、青年期に新聞記者(郵便報知新聞)として西南戦争に従軍。さらに社会問題に関心を寄せるようになり、自由民権運動に参加しました。

特に大隈重信率いる立憲改進党に所属し、弁舌巧みにして演説家として名を馳せました。1890年の第1回衆議院議員総選挙では、岡山県から初当選を果たし、政界に進出しました。

その後、第一大隈内閣では尾崎行雄辞任後に文部大臣を務めています。

なお、大隈重信については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・大隈重信の生涯と業績:早稲田大学創設や政治家としての足跡を生い立ちから解説

1913年の第一次護憲運動と犬養毅の役割

1913年(大正2年)、第一次護憲運動において犬養毅は、尾崎行雄(咢堂)とともに第3次桂内閣の倒閣運動に大きく貢献し、「憲政の神様」と称されました。

※護憲運動については以下の記事でくわしく解説しています。
護憲運動とは?大正デモクラシーを象徴する民主化運動の背景と影響を解説

しかし、当時所属していた立憲国民党は、桂太郎首相による切り崩し工作によって勢力が大幅に縮小。

犬養はその後、小規模な政党を率いながらも苦しい政治活動を強いられました。立憲国民党はその後、革新倶楽部へと変わりました。

なお、桂太郎については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・桂太郎の経歴と功績:生い立ちや西園寺公望との関係性、総理大臣としての評価を紹介

政友会総裁から内閣総理大臣へ

犬養は1923年に第2次山本内閣で逓信大臣を務め、その後、第2次護憲運動を経て成立した加藤高明内閣護憲三派内閣)でも再び逓信相に就任しました。

1929年、総理大臣・田中義一の死去にともない、犬養は立憲政友会の総裁に就任。さらに1931年、昭和恐慌による不況や満州事変の影響を受ける中で内閣総理大臣に任命され、政権を率いることとなります。

満州事変については以下の記事で詳しく解説しています。
満州事変とは?分かりやすく解説|いつ、どのように起きたか、そのきっかけと結果

犬養内閣は経済政策や外交政策において果敢に取り組みましたが、軍部との対立や国民の不満に直面しました。特に五・一五事件では、軍部によって暗殺されるなど、激動の政治状況に翻弄されました。

犬養毅は何をした人?

満州事変への対応と外交政策

犬養毅が総理大臣に就任した1931年は、満州事変が勃発した年でもありました。

満州事変は日本軍が中国東北部で軍事行動を開始し、満州国の設立を目指した事件です。その影響で第二次若槻内閣は辞任、西園寺公望の推薦で犬養毅が総理大臣に就任しました。

当時は世界恐慌の真っ只中にあり、犬養内閣は高橋是清を大蔵大臣にすえて世界最速でデフレ脱却に成功したころでした。多額の費用を要する満州国成立にも犬養は消極的で、中国を宗主国として日本と中国の合弁政権の樹立を画策していました。

なお、高橋是清については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・高橋是清は何をした人か:暗殺の経緯や理由(二・二六事件)と後世の評価を解説

しかし、関東軍をはじめとする軍部の台頭を抑えられず、膨大な軍事費を承認して関東軍による満州国成立を結果的に後押しすることになりました。

なお、関東軍については以下の記事で詳しく解説しています。
関東軍の歴史と暴走の真実:満州事変からノモンハン事件まで徹底解説します

金解禁政策の見直しと経済対策

犬養内閣は、浜口雄幸内閣が実施した金解禁政策の見直しにも着手しました。

金解禁とは、日本が金本位制に復帰し、通貨を金で裏付ける政策でしたが、これにより昭和恐慌が深刻化しました。犬養内閣は金本位制を停止し、円の切り下げによる輸出振興と国内景気の回復を目指しました。

この政策転換により、日本経済は徐々に持ち直しましたが、国民の不満や軍部の不満は高まり続けました。

五・一五事件前夜の政治情勢

犬養内閣が直面した最大の危機は、1932年に発生した五・一五事件です。

この事件では、海軍の青年将校らがクーデターを企図し、犬養毅を暗殺しました。事件の背景には、経済不況、軍部の不満、そして国民の政治への不信感がありました。

犬養は「話せば分かる」と青年将校たちに説得を試みましたが、彼の訴えは聞き入れられず、銃弾に倒れることとなりました。

五・一五事件は、軍部が政治に直接介入する時代の到来を告げ、日本の民主主義に大きな影響を与えました。

なお、五・一五事件については以下の記事で詳しく解説しています。
五・一五事件とは?犬養毅暗殺から二・二六事件への影響まで詳しく解説:なぜ起きたのか、事件後の日本社会

犬養毅と浜口雄幸:統帥権干犯問題との関係

犬養毅はロンドン海軍軍縮条約を調印した浜口内閣を激しく批判して政権から引きずりおろしています。その際に持ち出した論理が「統帥権干犯問題」です。

統帥権干犯問題とは?

統帥権干犯問題とは、1930年に発生した日本の政治的論争で、軍部が政府を批判した問題です。統帥権とは、天皇が軍を直接指揮する権限を指し、憲法上は内閣や国会の関与を受けないものでした。

この権限をめぐり、浜口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結した際、犬養が「内閣が天皇の統帥権を侵害した」と主張して浜口内閣を口撃しています。条約が軍艦の保有量を制限するものであったため、天皇の権限に勝手に踏み込んだと批判しました。

仲間を連れて文句を言う人

この理屈を軍部が取り入れ、軍部が政治に影響を及ぼすきっかけとなりました。日本の軍国主義への道を進める大きな一歩となってしまい、さらには五・一五事件で犬養自身が暗殺されるきっかけにもなってしまいました。

なお、ロンドン海軍軍縮条約については以下の記事で詳しく解説しています。
ロンドン海軍軍縮条約とは?補助艦の比率や全権交渉担当者、ワシントン条約との違いを徹底解説

浜口雄幸内閣との共闘と対立

犬養毅は、浜口雄幸内閣の進めた経済政策や外交政策に対して一定の支持をしていました。特に経済の金解禁政策や軍縮への取り組みは、犬養も理解を示していた部分です。

しかし、統帥権干犯問題を機に、犬養の所属する立憲政友会は次第に浜口内閣と対立するようになります。

政友会は、軍部と一定の関係を持ちながらも、政治的に浜口内閣の失策を批判し、国内の支持を得ようとしました。この共闘と対立の微妙な関係は、やがて犬養が首相に就任する際にも影響を及ぼしました。

軍部との緊張と政変の影響

軍部との緊張関係

犬養毅が内閣総理大臣に就任した1931年は、軍部の影響力が急速に拡大する時期でもありました。満州事変を契機に、軍部は外交や内政への影響力を強め、政府と軍の対立が深まりました。

会議で責められる人

犬養内閣は、軍部の行動を抑制しようとする一方で、国民からの支持も失いつつありました。この緊張関係がエスカレートした結果、犬養内閣は軍部からの強い圧力にさらされることとなり、政治は不安定な状態に陥りました。

政変の影響

統帥権干犯問題で政治と軍の関係が崩れた後、犬養内閣は国際的な孤立や経済不況という課題にも直面しました。この状況下で軍部はさらに政治への介入を強化し、結果として五・一五事件が発生します。

この事件は、軍が日本の政治の中心に立つ時代の幕開けとなり、軍部主導の国家運営が本格化しました。

五・一五事件と犬養毅の最後

1932年、ついに五・一五事件が発生します。この事件の概要と、銃弾に倒れた犬養毅の最後の言葉である「話せばわかる」について解説します。

五・一五事件の背景と経緯

五・一五事件は、1932年5月15日に発生したクーデター未遂事件です。この事件は、若手海軍将校らが「昭和維新」を目指し、現状の政治体制を打破しようと企図したものでした。

なおクーデターについては以下の記事で詳しく解説しています。
クーデターとは何か:クーデターの例や起きる原因とその影響、防止策を分かりやすく解説

官邸が襲撃され、政府要人への攻撃が行われました。背景には、軍部の不満や経済政策への反発、政界への不信感がありました。

事件の際、青年将校たちは総理公邸に押し入り、首相との対話を試みることなく襲撃を行ったのです。

犬養毅暗殺の真相と死因

五・一五事件で、犬養毅は青年将校たちにより暗殺されました。3名の青年将校たちが犬養のいる部屋に乱入した際、犬養は「撃つのはいつでも撃てる。まず話をしよう」とソファーに腰掛けるよう指示しました。

その直後に部屋に新たに乱入してきた4名によって犬養は撃たれてしまいました。

首相官邸での銃撃を受けた犬養は、致命傷を負い、その場で死亡しました。犬養の死因は、複数の銃弾による重傷であり、暗殺は事前に計画されていたものでした。

この事件は、日本の立憲政治における大きな転換点となり、軍部の政治的優位が確立されるきっかけとなりました。

「話せば分かる」の真意と最後の言葉

犬養毅は、暗殺される直前に「話せば分かる」と青年将校たちに語りかけたと伝えられています。この言葉は、犬養が対話と妥協を重視する政治姿勢を象徴しています。

しかし、将校たちは犬養の訴えを無視し、銃撃を行いました。

銃撃後も犬養は、「今撃った若いもんを連れてこい。話して聞かせる」と言っていました。

犬養毅が残したもの:日本政治への遺産

立憲政治と自由主義の擁護者として

犬養毅は、立憲政治と自由主義の擁護者として、日本の近代政治史において重要な役割を果たしました。

彼は自由民権運動に触発され、政治家としても「自由」「平等」「言論の自由」を重視しました。

特に内閣総理大臣として、経済的に困難な時期に金本位制からの脱却を決断し、日本経済の再建を図るなど、国民の生活を第一に考えた政策を進めました。また、外交面では国際協調路線を一定程度支持し、軍部の台頭を抑制しようとしました。

彼の立憲主義的な姿勢は、軍国主義が台頭する中で重要な民主主義の価値を守ろうとした象徴的な存在となりました。

犬養毅とその後の日本の政党政治

犬養毅が総裁を務めた立憲政友会は、日本の政党政治において大きな影響力を持つ存在でした。彼の死後、政友会は一時的に軍部や官僚主導の政治に押されることになりますが、犬養が示した政党政治の重要性はその後の日本政治に引き継がれていきます。

戦後、日本が再び議会制民主主義に移行した際、犬養が重視した「国民による政治」という理念が再評価され、現在の日本の政党政治の基礎に影響を与えました。

現代に語り継がれる犬養毅の思想と影響

犬養毅の思想は、現在も日本で語り継がれています。五・一五事件における「話せば分かる」という言葉は、対話と平和的な解決を重視するリーダーシップの象徴として、多くの人々に知られています。

特に、現代社会においても対立や分断が問題視される中、犬養が示した「対話による問題解決」の重要性は、ますます意義を持っています。

また、民主主義や自由主義といった普遍的な価値観を守ろうとした彼の姿勢は、現代の政治家や市民にも影響を与え、民主主義を考える際の重要なモデルとなっています。

犬養毅の遺産は、単なる歴史上の人物としてではなく、現在の日本政治や社会にも深く根付いています。

犬養毅に関するQ&A

Q1. 犬養毅はどのような政治家でしたか?

A1. 犬養毅(1855年~1932年)は、自由民権運動から政治家としてのキャリアを開始し、立憲政友会の総裁を務めた後、内閣総理大臣に就任した政治家です。特に、金輸出再禁止による経済政策の見直しや満州事変などの外交問題に積極的に取り組みましたが、1932年の五・一五事件で暗殺されました。

Q2. 犬養毅が取り組んだ重要な政策には何がありますか?

A2. 犬養毅は総理大臣として以下の政策に取り組みました:

  • 金解禁政策の見直し:世界恐慌で深刻な不況に陥っていた日本経済を立て直すため、金本位制の停止を決定しました。
  • 外交政策:満州事変が勃発する中で、国際協調を重視し、軍部の強硬な路線にある程度対抗しました。

Q3. 犬養毅と浜口雄幸はどのような関係にありましたか?

A3. 犬養毅と浜口雄幸は、共に立憲政治を重視した政治家であり、政党政治の発展に尽力しました。しかし、統帥権干犯問題では、浜口内閣が軍部の統帥権に介入したと犬養は批判。政友会総裁として政府と激しく対立しました。

Q4. 五・一五事件とは何ですか?

A4. 五・一五事件は、1932年5月15日に海軍の青年将校らが中心となって起こしたクーデター未遂事件です。この事件で、犬養毅は暗殺され、軍部の台頭が加速しました。暗殺直前に犬養が述べたとされる「話せば分かる」という言葉は有名です。

Q5. 犬養毅の最後の言葉「話せば分かる」の真意は?

A5. 犬養毅の最後の言葉とされる「話せば分かる」は、対話による問題解決の重要性を示しています。犬養を撃った若い軍人に対しても、「今の若いもんをもう一度、呼んでこい。よく話して事情を聞かせる」と言って対話を周囲に呼びかけたそうです。しかし、犬養のこの言葉が受け入れられることはありませんでした。

まとめ

犬養毅は「憲政の神様」と称され、立憲政治の擁護に尽力しました。

統帥権干犯問題で総理大臣・浜口雄幸を批判しましたが、逆に自身が統帥権干犯問題によって五・一五事件で軍部に暗殺されるという結果にもつながっています。

しかし暴力ではなく言論によって政治を動かす、人を動かすという信念を最後まで貫いた政治家として記憶されています。

【参考】
国立国会図書館
犬養木堂記念館
ジャパンナレッジ
慶応義塾大学
講談社
プレジデントオンライン

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