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統帥権干犯問題とは?浜口雄幸内閣と軍部の対立を徹底解説(ロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる争い)

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明治天皇 まとめ
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統帥権干犯問題とは、日本の軍部と内閣の対立が顕在化した歴史的な事件です。

1930年に浜口雄幸内閣が推進したロンドン海軍軍縮条約をめぐり、海軍や政友会などの保守派は「天皇の統帥権を侵害した」と強く反発しました。この問題は日本国内で大きな政治的混乱を引き起こし、最終的に軍部の政治的影響力を増大させる結果となりました。

この記事では、統帥権干犯問題の発端から国内外に与えた影響までを詳しく解説します。

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統帥権とは?その歴史的背景

統帥権の概念と大日本帝国憲法での位置付け

統帥権とは、軍事に関する最高指揮権を指し、近代日本においては天皇が持つ権限として明確に定められていました。これは、1889年に施行された大日本帝国憲法(明治憲法)の第11条で規定され、陸軍と海軍に関する統帥(指揮・命令)権は天皇に属し、内閣や議会の影響を受けない独立権限とされていました。

この独立性は、天皇が軍事を直接指揮することで、政府の干渉を防ぐ意図がありました。

しかし、具体的にどの範囲が天皇の統帥権に含まれるかは曖昧であり、軍事と外交の境界線が不明瞭でした。この曖昧さが後に政府と軍部の対立を引き起こし、統帥権干犯問題の要因の一つとなりました。

統帥権と軍部の独立性の強化

1900年代に入り、特に日露戦争以降、軍部は自らの独立性を強調し始めました。軍部は統帥権を盾に政府からの指揮・命令を拒否する姿勢を強め、内閣や外務省と対立することが増えました。

軍部は「統帥権は軍事作戦だけでなく、軍備や軍事政策にも及ぶ」と主張し、軍事政策における自由裁量を確保しようとしました。

この結果、内閣の軍事政策への関与は制限され、軍部は次第に独立した権力機関として日本の政治に大きな影響を与えるようになりました。

この傾向は、軍人出身の山本権兵衛や加藤友三郎が内閣総理大臣として政権を担当したときも変わりませんでした。

なお、山本権兵衛や加藤友三郎については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・山本権兵衛の生涯と業績:軍部大臣現役武官制の廃止に尽力した軍人政治家の功績
内閣総理大臣・加藤友三郎とは?ワシントン海軍軍縮条約を結んで世界から賞賛された名宰相

統帥権干犯問題の発端:ロンドン海軍軍縮条約

統帥権が大きな問題として議題にのぼるようになるのは、特にロンドン海軍軍縮条約からでした。

ロンドン海軍軍縮条約の締結と軍部の反発

1930年に日本が締結したロンドン海軍軍縮条約は、日米英の主力艦と補助艦の保有比率を規定するものでした。日本はこの条約で、主力艦の保有比率を米国とイギリスの60%とすることを受け入れました。

洋上に浮かぶ軍艦

浜口雄幸内閣は、軍備縮小による財政負担の軽減と国際協調を目的として条約を推進しました。しかし、日本海軍はこの保有比率を不満とし、特に補助艦の制限が国防上の脅威となると主張しました。

なお、ロンドン海軍軍縮条約や浜口雄幸については以下の記事で詳しく解説しています。
ロンドン海軍軍縮条約とは?補助艦の比率や全権交渉担当者、ワシントン条約との違いを徹底解説
内閣総理大臣・浜口雄幸の生涯と政治活動:東京駅での暗殺の背景、金解禁政策の効果を解説

統帥権干犯と軍部の主張

海軍や軍部の一部は、条約交渉において内閣が軍部の意見を無視して外交政策を優先したことを「統帥権の侵害」として批判しました。

ものすごく怒る人

軍部は、軍艦の保有や配備は天皇が指揮するべき事項であり、政府がこれを制限することは憲法違反であると主張したのです。この問題が国内で大きな政治問題へと発展し、政友会や犬養毅ら反対勢力が内閣を攻撃する材料として活用しました。

浜口雄幸内閣は元老の西園寺公望らの助力を得て条約批准に成功しましたが、この対立は内閣の支持基盤を弱体化させ、最終的には浜口の暗殺未遂事件やその後の政治的不安定につながりました。

なお、西園寺公望については以下の記事でくわしく解説しています。
内閣総理大臣・西園寺公望の生涯と業績:自由主義の政治家と立命館大学の開祖

浜口雄幸内閣と軍部の対立

浜口雄幸内閣(1929年~1931年)は、財政再建と国際協調を掲げて政権を運営していました。浜口は、世界恐慌による経済危機に対応するため、軍事費削減と軍備縮小を重視し、外交政策では国際連盟と協調する姿勢を取りました。

一方で、軍部はこの政策に強く反発しました。

仲間を連れて文句を言う人

特に、ロンドン海軍軍縮条約(1930年)の締結が海軍の保有艦艇数を制限したことで、軍部は内閣に対して「統帥権の干犯」であると批判を強めました。内閣と軍部の対立は、憲法上の権限の解釈をめぐる重大な問題へと発展し、政治の不安定化を招きました。

統帥権干犯と浜口雄幸内閣の意図

浜口内閣は、軍縮を通じて国家財政の健全化国際的な平和維持を目指していました。1930年のロンドン海軍軍縮条約において、浜口は米英と日本の補助艦比率を「10:10:7」で合意し、国際社会との協調路線を選択しました。

しかし、軍部はこれを軍の独立権限である統帥権の侵害とみなしました。軍艦の保有数や艦種は天皇が指揮する統帥権に属するというのが軍部の主張であり、浜口内閣が外交的に妥協したことを「軍事力の弱体化」として非難しました。

内閣はあくまで国際的な信頼と経済的安定を優先しましたが、これが軍部の激しい反発を引き起こしました。

犬養毅と政友会の反応

政友会の総裁であった犬養毅は、統帥権干犯問題を利用して浜口内閣を攻撃しました。犬養は、軍縮条約に反対する軍部と連携し、政府が憲法違反を犯していると主張しました。

会議で責められる人

特に、軍部の統帥権に内閣が干渉したことが立憲政治の危機であると強調し、政友会はこの問題を政権奪取の機会と捉えました。

犬養は議会で激しく浜口内閣を批判し、内閣の信頼を失わせるための世論形成に努めました。この対立は、最終的に浜口内閣の支持率低下につながり、内閣は政変を迎えることとなりました。

統帥権干犯問題と日本国内への影響

統帥権干犯問題は、日本国内において政治的混乱と軍部の台頭を招きました。憲法の解釈をめぐる論争は、軍部の独立性を強化し、政治家や内閣が軍事政策に影響を与えることがますます難しくなりました。

また、この問題をきっかけに、軍部は内閣に対して強い発言力を持つようになり、政治と軍のバランスが崩れる結果となりました。

さらに、軍部の主張を支持する一部の国民は、政府に対する不信感を強め、政治的な対立が社会全体に広がる事態を引き起こしました。

政治・軍部・国民の反応

政治的には、浜口内閣が支持基盤を失う一方で、軍部は国民の一部から支持を得ることに成功しました。特に、国家主義的な勢力軍事力強化を求める層は、政府の外交政策に反発し、軍部を擁護しました。

軍部は、統帥権干犯問題を利用して、国防の重要性を強調し、政府批判を煽動しました。

一方で、経済的に困窮する国民の中には、軍部の政策よりも経済安定を望む声も多く、社会は二極化していきました。

犬養毅の主張と政変

犬養毅は、統帥権干犯問題を浜口内閣の失政として非難し、軍部との連携を深めて内閣打倒を目指しました。彼は、「軍事力を弱体化させる政府は国民を守れない」と強調し、政友会を中心とした反政府勢力を結集させました。

この結果、浜口内閣は次第に政権を維持できなくなり、東京駅での暗殺未遂事件の後、1931年に政権交代が行われました。

その後、犬養毅は内閣総理大臣に就任しましたが、軍部との対立は続き、日本の政治はさらに不安定化しました。

まとめ:統帥権干犯問題が近代日本に与えた影響

統帥権干犯問題は、近代日本において政治・軍事・社会の各方面に重大な影響を与えました。この問題は単なる内閣と軍部の対立にとどまらず、日本の政治体制そのものを変質させる要因となりました。

特に、軍部の発言力が飛躍的に増大し、以降の日本の政治は軍部の強い影響下に置かれることになります。

以下では、統帥権干犯問題が日本に与えた3つの主要な影響を詳しく解説します。

軍部の政治介入の激化

統帥権干犯問題は、軍部が政治への干渉を強める契機となりました。

本来、統帥権は天皇の専権事項とされていましたが、軍部はこの問題を利用して、内閣や議会が軍事政策に関与することを制限しました。これにより、軍部は政治から独立した存在としての地位を確立し、以後の内閣は軍部の意向に逆らうことが難しくなりました。

この影響で、1930年代以降の日本は軍国主義化が進行し、外交や内政も軍部主導で展開されるようになります。

立憲政治の後退と政党政治の崩壊

統帥権干犯問題は、大正デモクラシー期に確立されつつあった立憲政治の後退を招きました。浜口雄幸内閣は、憲政の常道に基づく政党内閣として誕生しましたが、この問題によって軍部や野党勢力から激しく攻撃されました。

結果的に、政党政治は次第に国民の信頼を失い、軍部に対する抑制力を失っていきます。1932年の五・一五事件で犬養毅が暗殺されると、政党政治は事実上崩壊し、軍部と官僚が支配する体制へと移行しました。

なお、大正デモクラシーについては以下の記事で詳しく解説しています。
護憲運動とは?大正デモクラシーを象徴する民主化運動の背景と影響を解説

国民意識と社会の変化

統帥権干犯問題は、国民の政治意識にも大きな影響を与えました。当初、浜口内閣の外交政策や軍縮路線は一部の国民に支持されましたが、軍部や右翼勢力の宣伝活動により、政府への不信感や軍部への支持が拡大しました。

特に、軍事力による国防を重視する世論が形成され、戦争に向かう国家体制への支持基盤が整えられていきました。

この社会的変化は、第二次世界大戦へと突き進む要因の一つとなります。

結論

統帥権干犯問題は、日本の民主主義と立憲政治に深刻な影響を及ぼし、最終的には軍部独裁の政治体制を生み出しました。

この問題をきっかけに、軍部の台頭と政党政治の衰退が進行し、近代日本は戦争と軍国主義へと突き進むことになったのです。

統帥権干犯問題に関するQ&A

Q1. 統帥権とは何ですか?

A1. 統帥権とは、大日本帝国憲法下において、天皇が軍の最高指揮権を持つことを指します。この権限は、内閣や議会の干渉を受けず、軍事行動や戦略決定において天皇が直接指揮するものとされていました。特に、陸軍と海軍の人事や軍備、作戦計画などに関する決定が独立して行われたため、内閣や議会と軍部の対立を招くことがありました。

Q2. 統帥権干犯問題とは何ですか?

A2. 統帥権干犯問題とは、1930年に浜口雄幸内閣が締結したロンドン海軍軍縮条約が、軍部の統帥権を侵害したとする政治的な問題です。海軍軍令部は、軍艦の保有比率が軍事力を制限し、統帥権の独立を脅かすと主張しました。軍部と政党内の保守派、特に政友会の犬養毅がこれに反発し、内閣を批判しました。

Q3. ロンドン海軍軍縮条約とは何ですか?

A3. 1930年に締結されたロンドン海軍軍縮条約は、アメリカ、イギリス、日本の3カ国が主に戦艦や巡洋艦などの海軍力を制限することを目的とした国際条約です。特に日本は、アメリカとイギリスに対して10:10:7の保有比率を認めさせましたが、軍部はこの比率が日本の国防力を削ぐものと反発しました。

Q4. 浜口雄幸内閣が統帥権干犯問題で批判された理由は?

A4. 浜口内閣は、軍部の反対を押し切り、軍縮条約を締結したことが「天皇の統帥権を内閣が侵害した」とみなされたため批判を受けました。軍部は、軍事政策に関しては天皇の命令が唯一の正当な指示であるとし、内閣がその独立性を脅かしたと主張しました。

Q5. 統帥権干犯問題が日本に与えた影響は?

A6. 統帥権干犯問題は、軍部の政治介入を強める結果となりました。この問題以降、軍部は内閣や議会に対する影響力を強め、後の軍国主義化を加速させました。さらに、政党政治が衰退し、軍部主導の政策が進む要因となり、満州事変や太平洋戦争へとつながる一因となりました。

なお、満州事変については以下の記事で詳しく解説しています。
満州事変とは?分かりやすく解説|いつ、どのように起きたか、そのきっかけと結果

Q6. 浜口雄幸暗殺未遂事件との関係は?

A7. 統帥権干犯問題で内閣が軍部や保守派から批判を受けた結果、浜口雄幸は1930年に東京駅で狙撃される暗殺未遂事件に遭遇しました。この事件は、彼がロンドン海軍軍縮条約を推進したことに反発した右翼勢力によるものです。

襲撃による負傷で浜口は健康を大きく損ね、その後の内閣運営にも影響を与えて辞任しました。

まとめ

統帥権干犯問題は、近代日本の政治・軍事体制を大きく変えた転換点でした。 この問題を通じて、軍部は内閣や議会に対する影響力を強め、後の満州事変太平洋戦争へと続く軍国主義化が加速しました。

一方で、政党政治は弱体化し、内閣の安定性が揺らぐ結果を招きました。統帥権をめぐる内閣と軍部の対立は、民主主義の課題を浮き彫りにし、戦後の日本の政治体制においても重要な教訓を残しています。

【参考】
外務省
中国新聞
産経新聞

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