田中義一は、日本の軍人であり、後に第26代内閣総理大臣として日本の政界で大きな役割を果たしました。
その政治経歴は、軍事外交を軸に、張作霖爆殺事件や山東出兵など、昭和初期の激動期に日本の進路を大きく左右しました。
本記事では、田中義一の生涯や政策、田中内閣で活躍した高橋是清、また幣原喜重郎らとの関係を詳しく解説します。
田中義一は何をした人か?軍人から総理大臣へ
田中義一の生い立ちと軍人としての経歴
田中義一(たなか ぎいち、1864年6月22日〜1929年9月29日)は、山口県萩市で生まれた陸軍軍人であり政治家です。彼は明治維新の功績者である長州藩の影響を受け、幼少期から軍事への関心を深めました。
陸軍士官学校を卒業後、日清戦争(1894年〜1895年)や日露戦争(1904年〜1905年)に従軍し、戦場での戦術的才能と統率力が評価されました。特に日露戦争では旅順攻略や奉天会戦などの重要な戦場で活躍し、陸軍中将に昇進しました。
戦後は軍事行政に携わり、朝鮮総督府の参謀総長や陸軍大臣を歴任し、日本の軍事力強化に尽力しました。彼の国際的な視野と軍事的手腕が評価され、1927年に内閣総理大臣に就任しました。
田中義一内閣の外交政策:張作霖爆殺事件と山東出兵
内閣総理大臣就任後、田中義一はそれまでの外交政策(幣原喜重郎による協調外交)を転換。積極的な外交政策を取りました。その最中に関東軍が張作霖爆殺事件を起こしています。
張作霖爆殺事件:田中義一内閣が直面した危機
1928年6月4日に起きた張作霖爆殺事件は、田中義一内閣にとって最も大きな外交危機となりました。この事件は、日本陸軍の関東軍が中国東北部で軍閥の指導者である張作霖を爆殺したものです。
関東軍は中国北部における日本の権益を強化しようとしましたが、張作霖の暗殺は中国国内で大きな混乱を引き起こしました。
この事件は、日本政府の関与が疑われたことで国際的な非難を招きました。田中義一は昭和天皇に事件の詳細を報告し、事件の処理に努めましたが、軍部を抑えることができず、結果的に責任を問われて1929年に内閣総辞職に追い込まれました。
この事件は日本国内における軍部の独走を象徴するものとなり、軍国主義への転換点となりました。
なお、関東軍については以下の記事で詳しく解説しています。
関東軍の歴史と暴走の真実:満州事変からノモンハン事件まで徹底解説します
山東出兵:中国との関係悪化の要因
田中内閣は、1927年から1928年にかけて三度にわたり山東出兵を行いました。これは、中国内戦中の混乱に乗じて、日本の権益を保護し、山東半島における影響力を強化することを目的としたものでした。
なお、山東出兵については以下の記事で詳しく解説しています。
山東出兵とは?なぜ行われたのかを分かりやすく解説|田中義一内閣と済南事件の影響
当時、中国では国民党が北伐を進めており、日本はその進軍が自国の権益を脅かすと考えました。
第一次山東出兵(1927年)は、青島に駐留する日本人居留民の保護を名目とし、第二次・第三次山東出兵(1928年)は国民党軍と対峙するために行われました。しかし、この出兵は中国国民党との緊張を高め、中国国内における反日感情を激化させる結果となりました。
また、日本国内でも経済的負担や外交的孤立に対する批判が高まり、田中内閣は国内外で孤立を深めることとなりました。
田中義一内閣の経済政策:高橋是清蔵相のモラトリアム政策
昭和金融恐慌への対応とモラトリアム政策
田中義一内閣は、1927年に発生した昭和金融恐慌への対応に追われました。この金融恐慌は、震災手形(関東大震災後に発行された手形)の処理問題や銀行経営の不安定化が原因で、日本の金融システムが大混乱に陥ったものです。
これを受け、田中内閣は元総理大臣でもある高橋是清を蔵相に任命し、金融危機の収束にあたらせました。
高橋是清が採用したのが、モラトリアム(支払猶予令)でした。1927年3月15日に発令されたこの政策は、全国の銀行が3週間にわたり支払いを停止することで、金融機関の取り付け騒ぎ(預金の引き出し)や破綻を防ぐ緊急措置でした。
この政策により、一時的に金融市場は安定を取り戻しましたが、根本的な経済改革には至りませんでした。金融恐慌は沈静化したものの、その後も日本経済は慢性的な不況に苦しみ、特に農村部では深刻な経済難が続きました。
このモラトリアムは、経済政策において短期的な効果をもたらした一方、抜本的な金融システム改革の必要性を浮き彫りにしました。
なお、高橋是清については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・高橋是清は何をした人か:暗殺の経緯や理由(二・二六事件)と後世の評価を解説
幣原喜重郎と田中義一:協調外交から積極外交へ
幣原喜重郎による協調外交はその後、田中義一内閣によって方針転換されました。
幣原喜重郎については以下の記事で詳しく解説しています。
幣原喜重郎とは何をした人か?幣原外交と日本国憲法への貢献を分かりやすく解説
幣原喜重郎の協調外交とその成果
田中義一内閣以前の外交政策は、幣原喜重郎外相が推進していた「協調外交」が中心でした。幣原は第一次世界大戦後の国際秩序を支えるため、国際連盟を中心とした多国間協力を重視しました。
特に1930年のロンドン海軍軍縮条約は、アメリカ、イギリス、日本の三国間で海軍軍備を制限し、アジア太平洋地域における平和維持を図る重要な成果でした。
※ロンドン海軍軍縮条約については以下の記事で詳しく解説しています。
ロンドン海軍軍縮条約とは?補助艦の比率や全権交渉担当者、ワシントン条約との違いを徹底解説
また、幣原は中国国民党との協調を図り、武力によらない外交的解決を目指しました。
田中義一による外交の転換と軍事的路線
しかし、1927年に田中義一が内閣総理大臣に就任すると、外交政策は大きく転換します。
田中は幣原の協調外交を「弱腰」とみなし、軍事力による日本の権益拡大を優先しました。特に満州における日本の経済的・軍事的利益を確保するため、田中内閣は山東出兵や、関東軍が主導した張作霖爆殺事件を容認する結果となりました。
この転換により、国際社会での日本の立場は次第に孤立し、国際連盟やアメリカとの関係も悪化しました。また、軍部の影響力が強まるきっかけとなり、後の日本の軍国主義への道筋が明確化しました。
田中の外交政策は、短期的には日本の権益を守ることに成功しましたが、長期的には日本の外交的孤立と軍部の暴走を招く結果となりました。
田中義一の総理大臣辞任とその後の影響
田中義一は、張作霖爆殺事件の責任を天皇から追及され、総理大臣を辞任しました。田中にとって相当辛い出来事だったようで、辞任から3か月後に狭心症で亡くなっています。
張作霖爆殺事件の責任と内閣総辞職
1928年6月、満州を支配していた張作霖が関東軍によって爆殺された張作霖爆殺事件は、田中義一内閣にとって大きな試練となりました。事件は、日本の軍部が独断で行ったものであり、田中首相自身も関与していなかったとされていますが、内閣の指導力不足が問題視されました。
田中は昭和天皇に事件の詳細を報告し、関東軍の行動を非難しましたが、軍部を抑えることができず、天皇からの信頼を失います。
事件の隠蔽工作も明らかになり、国内外から厳しい批判を受けた田中は、1929年7月2日に内閣総辞職に追い込まれました。
この辞任は、日本における文民政府が軍部に対して十分なコントロールを持てなかったことを象徴する出来事となりました。
辞任後の影響と日本の軍事外交への影響
田中義一の辞任後も、彼が進めた軍事外交はその後の日本の政策に深く影響を与えました。田中内閣が強硬路線をとった満州問題は、1931年の満州事変へと発展し、日本は国際連盟からの孤立を深めました。
満州事変は関東軍の石原莞爾が首謀者となって起こした事件で、満州国を建国しています。満州事変については以下の記事で詳しく解説しています。
満州事変とは?分かりやすく解説|いつ、どのように起きたか、そのきっかけと結果
この事件以降、日本は軍部主導の外交政策を本格化させ、国際協調よりも勢力圏の拡大を重視するようになります。
さらに、田中が推し進めた満州での権益確保政策は、アジアにおける日本の野心を増大させ、最終的に太平洋戦争への道筋を形作ることになりました。
田中が掲げた「満州は日本の生命線」という認識は、以降の内閣にも引き継がれ、軍部が政策決定において強大な影響力を持つ要因となりました。
軍部台頭と文民政府の衰退
田中の辞任は、軍部が独自に行動し、内閣がそれを制御できなかった初の重大な事例であり、軍部の暴走を許容する一つの転換点となりました。その後の内閣も、軍部を抑えることができず、軍事力による外交政策が続きます。
特に満州事変(1931年)や日中戦争(1937年)、さらには太平洋戦争(1941年)へと続く流れは、田中義一内閣の外交路線と軍部との関係が大きく影響しているといえます。
田中義一の辞任後、日本は軍国主義への道を突き進むこととなり、結果的に戦争による国家の崩壊という悲劇を迎えることになりました。彼の辞任は、軍部と政府の力関係が大きく変化した重要な転換点であったと言えます。
田中義一に関するQ&A
Q1: 田中義一とはどのような人物ですか?
A: 田中義一(たなか ぎいち、1864年〜1929年)は、山口県萩市出身の陸軍軍人であり、後に日本の第26代内閣総理大臣を務めました。日清戦争や日露戦争で軍事的に活躍し、陸軍大臣や朝鮮総督府参謀総長を歴任。その後、1927年に総理大臣に就任し、強硬な軍事外交政策を推進しました。
Q2: 張作霖爆殺事件とは何ですか?田中義一の責任は?
A: 張作霖爆殺事件(1928年)は、日本の関東軍が中国東北部の軍閥指導者である張作霖を爆殺した事件です。田中義一内閣は事件に直接関与していなかったものの、軍部を統制できなかった責任を問われ、内閣総辞職に追い込まれました。
Q3: 田中義一内閣が行った山東出兵とは何ですか?
A: 山東出兵は、1927年から1928年にかけて、田中義一内閣が中国国内の日本人権益を保護するために行った軍事行動です。第一次と第二次の出兵が行われ、中国国民党との対立が激化し、日本と中国の関係が悪化しました。
Q4: 田中義一内閣の経済政策における高橋是清の役割は何ですか?
A: 高橋是清は田中内閣の蔵相として、昭和金融恐慌に対応するために「モラトリアム(支払猶予令)」を発令しました。この政策は銀行の取り付け騒ぎを鎮静化し、金融機関の破綻を防ぎましたが、経済の根本的な回復にはつながりませんでした。
Q5: 田中義一は幣原喜重郎の外交政策とどのように違いましたか?
A: 田中義一は、幣原喜重郎が進めた協調外交を否定し、より軍事力を背景にした強硬外交を展開しました。特に満州問題では積極的に日本の権益を拡大しようとし、この方針は後に満州事変や日本の国際的孤立につながりました。
Q6: 田中義一の辞任後、日本の外交や軍事政策はどのように変化しましたか?
A: 田中義一の辞任後も、彼の軍事外交政策は継続され、1931年の満州事変を引き起こしました。これにより、日本は国際社会から孤立し、軍部の台頭が加速。最終的に太平洋戦争へと突き進むことになりました。
Q7: 田中義一と張作霖爆殺事件の関係が現代に与える教訓は何ですか?
A: 張作霖爆殺事件は、政府が軍部を統制できなかった事例として知られています。この事件は、文民統制の重要性と軍部が暴走した場合の国家へのリスクを示す教訓となり、現代でも外交・軍事政策における抑制とバランスの重要性が強調されています。
Q8: 田中義一の辞任が五・一五事件に影響を与えた理由は?
A: 田中義一の辞任は、文民政府が軍部を抑制できなかった象徴的な出来事です。この後、軍部はますます政治に介入し、1932年に発生した五・一五事件(犬養毅首相暗殺事件)など、軍部主導のクーデター的な行動が続発するようになりました。
まとめ
田中義一は、軍人出身の総理大臣として、日本の軍事的・外交的政策を転換させた重要な人物です。
田中義一の政策は短期的には一定の成果を収めたものの、長期的には日本の孤立化と戦争への道筋を形作る要因となりました。張作霖爆殺事件や山東出兵、高橋是清のモラトリアム政策など、彼が直面した課題は日本の近代史に深い影響を与えています。
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