1927年から1928年にかけて、日本が中国・山東省に軍を派遣した山東出兵は、日本と中国の関係を大きく揺るがす出来事でした。
この出兵はなぜ行われたのか?どのような背景や目的があったのか?さらに、現地で発生した済南事件と、当時の総理大臣田中義一との関係を解説します。
本記事では、山東出兵の全貌をわかりやすく説明しています。
山東出兵とは?その背景と目的
山東出兵とは?
山東出兵は、1927年から1928年にかけて日本が中国・山東省に軍を派遣した一連の軍事行動を指します。この出兵は三度にわたって行われました。
第一回は1927年3月、第二回・第三回は1928年4月と5月に実施されました。
当時、中国は国民党と軍閥が権力を争う北伐の最中で、国内情勢は非常に不安定でした。日本は、中国国内で自国民や企業が危険にさらされることを懸念し、これを保護するという名目で山東省に軍を派遣しました。
しかし、単なる自国民保護以上に、日本はこの出兵を通じて、山東省における経済的・軍事的な影響力を強化する意図がありました。特に、日本はこの地域を国民党の支配下に置かれることを避け、自らの権益を守ろうとしました。
出兵は中国国民党の北伐を妨げ、さらに中国と日本の緊張を高める要因となりました。
山東省はなぜ重要だったのか?
山東省は、古代中国から重要な地位を占めており、文化・経済の中心地でした。この地域は孔子の出身地でもあり、儒教の聖地とされる歴史的・文化的な重要性もありました。
しかし、それ以上に、山東省は中国東部の海岸に位置し、戦略的にも非常に価値のある地域でした。
山東省はもともとドイツの勢力圏下にありましたが、第一次世界大戦でドイツが敗北した後、1919年のヴェルサイユ条約によって日本がその権益を引き継ぎました。
これにより、日本は山東省での鉄道・鉱山などの経済的権益を手に入れ、地域での影響力を拡大しました。しかし、この権益獲得は中国国内で反発を招き、五四運動を引き起こすなど、中国国内の反日感情が高まりました。
そのため、日本にとって山東省は、経済的利益だけでなく、中国国内での地位を維持するための重要な拠点でした。日本は国際的にこの権益を維持し、中国における影響力を確保するために、軍事的な行動を選択したのです。
この選択が、日中関係に長期的な影響を及ぼすこととなりました。
田中義一と山東出兵
田中義一内閣の政策
田中義一は1927年、金融恐慌や国際的な緊張が高まる中で内閣総理大臣に就任しました。彼は内政よりも外交・軍事を通じて日本の国際的地位を強化することに注力し、特に対中国政策において積極的な姿勢を示しました。
田中義一については以下の記事で詳しく解説しています。
田中義一とは誰か?張作霖爆殺事件と山東出兵を巡る軍人政治家の生涯とその影響
当時、中国では国民党が北伐を進め、日本の権益が脅かされていました。田中は日本の権益を守るため、軍事力を行使する方針を採用します。
その象徴的な行動が山東出兵です。
田中内閣は、日本企業や居留民を保護する名目で中国山東省に二度にわたる軍事派遣を実施しました。この政策は田中内閣の「積極外交」として知られ、中国内政への干渉を伴うものでした。
彼は中国における日本の経済的利益を守りつつ、軍事的な存在感を強化し、国際社会での日本の立場を維持しようとしました。しかし、山東出兵は中国との対立を深め、後に日中関係の悪化を招く原因となりました。
なお、田中義一はそれまでの幣原喜重郎による協調外交の方針を破棄しています。幣原喜重郎については以下の記事で詳しく解説しています。
幣原喜重郎とは何をした人か?幣原外交と日本国憲法への貢献を分かりやすく解説
田中メモランダムの存在
田中メモランダム(田中奏摺)は、田中義一が1927年に昭和天皇に提出したとされる外交方針文書です。この文書は、中国大陸への積極的な進出と、アジアでの日本の覇権を目指す戦略が示されていたといわれています。
メモランダムの中で、田中は満州や中国の権益を確保し、それが日本の安全保障と経済発展に不可欠であると強調したとされています。
ただし、田中メモランダムの実在については歴史的に議論があります。一部の研究者は、その文書が後に中国側のプロパガンダとして作られた可能性を指摘しており、必ずしも田中自身がそのような積極的な侵略政策を全面的に支持したとは断定できません。
しかし、日本が満州や中国への拡大を目指したのは事実であり、田中内閣の外交政策がその方向に進んだことは歴史的にも明らかです。
田中メモランダムが象徴するように、田中義一の外交政策は日本をアジアでの軍事的・経済的支配に向かわせ、その影響は後の満州事変や太平洋戦争に至るまで続きました。
なお、満州事変については以下の記事で詳しく解説しています。
満州事変とは?分かりやすく解説|いつ、どのように起きたか、そのきっかけと結果
山東出兵と済南事件
済南事件とは?
済南事件は、1928年5月に中国山東省済南市で発生した武力衝突事件です。この事件では、日本軍と中国の国民革命軍が衝突し、多数の死傷者が出ました。具体的には、日本軍が29名の戦死者と200名以上の負傷者を出し、中国側も市民を含めて大きな被害(数千名とも)を受けました。
日本政府は「邦人保護」を名目に済南に駐屯していましたが、蒋介石率いる国民革命軍が北伐を進め、山東省に進軍した際に両軍が衝突したことで事件が勃発しました。
この事件をきっかけに日本政府は三度の出兵(第三次山東出兵)を決定しました。
済南事件の背景
済南事件の背景には、1920年代後半の中国の政情不安と日本の対中政策が深く関係しています。
1926年に始まった蒋介石率いる北伐は、中国全土の統一と軍閥の打倒を目指し、北上を続けていました。北伐軍が1928年に山東省に到達すると、日本はこの地域での権益を守るために軍を派遣しました。
特に、在留邦人の保護が名目とされましたが、実際には日本の権益維持と中国への影響力を確保する意図がありました。現地では、日本軍と国民革命軍の間で緊張が高まり、武力衝突に発展しました。
この時期の山東省は、第一次世界大戦後にドイツが撤退したことで日本がその権益を引き継いでおり、地域的に日本にとって重要な場所でした。
済南事件の影響
済南事件は、日中関係を一気に悪化させる重要な出来事となりました。この事件により、日本国内では政府と軍部の間で対中政策を巡る意見の対立が深まりました。
- 軍部は、より積極的な軍事行動を求め、対中強硬路線を主張しました。
- 一方、政府内の一部では、外交による解決を模索する声もありましたが、事件後は強硬路線が優勢となりました。
また、中国国内では、事件を日本の侵略行為と受け止める声が高まり、反日感情が一層強まります。
この出来事は、後の満州事変や日中戦争への布石ともなり、日中間の緊張がエスカレートするきっかけとなりました。
済南事件は単なる地域的な衝突にとどまらず、アジアにおける日本の孤立化と軍国主義の進展を促す大きな転換点となりました。
山東出兵の結果とその後の影響
北伐の成功と日本の撤退
1928年、蒋介石率いる国民革命軍が北京を占領し、北伐は事実上の成功を収めました。北伐は、中国全土の統一と各地の軍閥勢力の排除を目指したものであり、北京占領はその最終段階を示します。
これにより、中国は形式的に一つの政府の下で統一されることになりました。
一方で、日本はこの成功を受け、さらに国際社会からの圧力も高まったことから、山東省からの撤退を余儀なくされました。特に、アメリカやイギリスなどの列強諸国は、日本の山東出兵が地域の安定を脅かすものとして批判していました。
1928年末、日本はやむを得ず山東省から撤退しましたが、この撤退は日本国内で「外交的敗北」として一部の強硬派から批判されました。
日中関係の悪化と満州事変への道
山東出兵とその過程で発生した済南事件は、日中関係をさらに悪化させる重要な転換点となりました。事件をきっかけに、中国国内では日本に対する反日感情が急速に高まり、両国の対立は深刻なものになりました。
特に、中国国内では日本が中国の主権を脅かしていると認識され、民族主義運動が活発化しました。
日本国内でも、政府内の穏健派と軍部の強硬派との間で意見が対立しました。軍部は中国へのさらなる軍事行動を求め、政府を批判しました。結果として、軍部の政治的影響力が次第に強まり、外交的手段よりも軍事行動を優先する方向へと傾いていきます。この流れは、1931年に発生した満州事変へと直結し、日本が中国東北部(満州)を占領することで、さらに日中関係を悪化させることになります。
満州事変は、国際連盟による非難や日本の国際的孤立を招き、最終的には日本の第二次世界大戦参戦への道を形作ることとなりました。山東出兵は、単なる一時的な軍事行動にとどまらず、後の日本とアジア全体の情勢に大きな影響を及ぼしたのです。
山東出兵に関するQ&A
Q1: 山東出兵とは何ですか?
A: 山東出兵は、1927年から1928年にかけて日本軍が中国の山東省に派遣された軍事行動です。日本は、蒋介石率いる国民革命軍の北伐が山東省に及ぶ中で、自国民と権益を守るために出兵を決定しました。
しかし、この出兵で中国との緊張感が高まり、済南事件という武力衝突が引き起こされました。
Q2: 山東省はなぜ日本にとって重要だったのですか?
A: 山東省は古代から中国の文化・経済の中心地であり、特に山東半島は地政学的に重要な地域でした。第一次世界大戦後、日本はドイツが保持していた山東省の権益を引き継ぎました。
日本は、同地域における鉱物資源や貿易ルートを確保し、自国の経済的・軍事的な影響力を維持しようとしました。
Q3: 田中義一内閣はなぜ山東出兵を行ったのですか?
A: 田中義一内閣は、中国国内の不安定な状況を利用し、日本の権益と国民の保護を名目に山東省に出兵しました。田中内閣の外交方針は、軍事的手段を用いて日本の影響力を確保する積極外交でした。
これは、当時の蔵相高橋是清が進めていた国内の経済政策と並行して行われました。
Q4: 済南事件とは何ですか?
A: 済南事件は、1928年5月に山東省済南市で発生した日本軍と中国国民革命軍との武力衝突です。この事件により、数百人の死傷者が出ました。事件の原因は、日本軍が中国軍の接近を脅威と見なし、武力で対抗したことにあり、結果的に日中関係は大きく悪化しました。
Q5: 山東出兵の結果はどうなりましたか?
A: 山東出兵は1928年末に日本が撤退することで終結しましたが、その結果、日中関係は大幅に悪化しました。また、この出来事は、1931年の満州事変や、その後の日中戦争、さらには太平洋戦争への伏線となりました。
日本国内でも政府と軍部の対立が激化し、後に軍部の影響力が強まるきっかけになりました。
Q6: 山東出兵は満州事変にどのように繋がりましたか?
A: 山東出兵による中国との対立と、日本国内での軍部の台頭が、1931年に起きた満州事変に繋がりました。山東出兵での外交的敗北や国内外からの批判を受けた軍部は、満州での行動を加速させ、中国東北部での日本の権益拡大を進めました。
これにより、日本は国際的に孤立し、戦争への道を歩むこととなりました。
まとめ
山東出兵は、中国での日本の勢力拡大を図るものでしたが、済南事件をきっかけに日中関係が悪化し、その後の満州事変や日中戦争の火種となりました。田中義一内閣が推進したこの政策は、国内外で議論を巻き起こし、後に日本の外交政策に大きな影響を与えました。この記事で山東出兵の背景や影響を理解し、現代に続く日中関係の一端を知る手助けとなれば幸いです。
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