関東軍は、日本の近代史において重要な存在であり、特に満州事変やノモンハン事件などでその名を残しました。しかし、政府の統制を超えた「暴走」とも言える行動は、国際的な非難を招き、日本の孤立化を加速させました。
本記事では、関東軍の歴史や役割を詳しく解説し、「関東軍 暴走」や「陸軍との違い」に焦点を当て、張作霖爆殺事件からノモンハン事件までの主要な出来事を解明します。
関東軍とは何か?基本情報と設立の背景
そもそも関東軍(かんとうぐん)とは何なのか、その概要から説明します。
関東軍の設立経緯とその役割
関東軍は、日露戦争後の1906年に設置された日本陸軍の部隊で、南満州鉄道とその周辺地域を保護する目的で設立されました。
当初は単なる守備隊に過ぎなかった関東軍ですが、大陸政策を進める中で次第に攻撃的な性格を持つようになります。日本政府の意図を超えた独自の行動を起こし、特に満州事変やその後の軍事行動で中心的な役割を果たしました。
陸軍全体の中での関東軍の位置づけ
関東軍は陸軍全体の一部でありながら、中国大陸に駐屯する特別な存在として、他の部隊以上の影響力を持っていました。
その位置づけは、「守備」から「積極的な侵略」へと変化し、関東軍の行動が日本全体の外交政策や軍事戦略に大きな影響を与えました。
関東軍と陸軍の違い
関東軍は陸軍の一部でしたが、その活動は日本国内の陸軍中央司令部の指示を超えることが多々ありました。この独自性は「暴走」と呼ばれる要因となり、軍部全体と政治の間に緊張を生み出しました。
関東軍は大陸政策における現地の最前線部隊であり、日本陸軍全体の統制を逸脱する動きが頻繁に見られました。
張作霖爆殺事件:関東軍の暴走の始まり
当初は守備部隊であった関東軍。その暴走の始まりは張作霖爆殺事件でした。
張作霖爆殺事件の背景と経過
1928年に起きた張作霖爆殺事件は、関東軍が中国東北部の軍閥指導者である張作霖を爆殺した事件です。
当時、日本は満州における影響力拡大を目指しており、張作霖の存在がその障害と見なされました。
関東軍はこれを排除するために独断で行動し、奉天(現在の瀋陽)近郊で張作霖の列車を爆破しました。
関東軍が事件を起こした理由
この事件は、満州の完全支配を目指す関東軍の戦略的判断によるものでした。張作霖を殺害した後に満州の権益を独占しようとしていました。
しかし、政府は事件を知らされておらず、事件後に外交的な非難を受けました。
関東軍はこの事件で日本政府の統制を大きく逸脱しました。
政府との対立とその後の影響
張作霖爆殺事件は、関東軍と日本政府との間の深刻な対立を浮き彫りにしました。政府は事件を国際社会に隠蔽しようとしましたが、関東軍の独断専行は、国内外で日本の外交政策に大きな影響を与え、後の満州事変への布石となりました。
なお、張作霖の死後には息子の張学良が激怒。国民政府と協力して日本政府に対抗しました。関東軍の計画は早々に失敗に終わりました。
満州事変と関東軍:国際社会の非難と満州国の成立
関東軍の暴走は止まりません。3年後には満州を手に入れるために満州事変を起こしました。
柳条湖事件から始まった満州事変
1931年9月、関東軍は柳条湖事件を引き起こし、これを中国軍の仕業として満州事変を開始しました。関東軍はこの事件を利用して満州全域を占領し、1932年に満州国を建国。溥儀を皇帝に据えます。
柳条湖事件は関東軍の計画的な行動であり、日本政府は事後承認を余儀なくされました。
なお、柳条湖事件と満州事変については以下の記事で詳しく解説しています。
柳条湖事件とは?いつ、どこで起きたのか、石原莞爾の関与とその後の日中関係を分かりやすく解説
満州事変とは?分かりやすく解説|いつ、どのように起きたか、そのきっかけと結果
関東軍の戦略と石原莞爾の思想
満州事変の首謀者は関東軍の石原莞爾でした。石原莞爾は、「満州を日本の生命線」と位置づけ、関東軍の行動を正当化しました。
彼の思想は軍事と経済の両面で満州を日本の植民地的存在に変えるものでしたが、国際社会からは強い非難を浴びました。
満州国建国の過程と国際的な反応
満州国建国は日本の侵略行為とみなされ、国際連盟はこれを認めませんでした。
リットン調査団の報告書は日本の行動を批判し、結果として日本は1933年に国際連盟を脱退しました。この孤立化が太平洋戦争への道を加速させました。
ノモンハン事件:日ソ間の衝突と関東軍の限界
満州を力づくで奪った関東軍ですが、ソ連と直接対峙することになりました。ロシア崩壊後は力を失っていたソ連ですが、この頃には国力も回復していました。
ノモンハン事件の経緯と背景
1939年、関東軍とソ連軍はノモンハン(現モンゴル国境付近)で大規模な衝突を起こしました。関東軍はソ連との小規模な紛争を有利に進めようとしましたが、予想以上のソ連軍の反撃に遭い、大敗を喫しました。
関東軍の失敗と日ソ関係への影響
ノモンハン事件の失敗は、関東軍の作戦能力の限界を露呈させました。
この事件を契機に、日本は対ソ政策を転換し、南進政策へと軸足を移します。結果として日独伊三国同盟が強化され、戦争の規模がさらに拡大する一因となりました。
ノモンハン事件が示した軍内部の課題
ノモンハン事件は、関東軍の戦略的判断や装備、補給体制の欠陥を明らかにしました。また、政府と軍部の連携不足も問題となり、関東軍の独断的な行動が再び批判の的となりました。
この教訓は日本全体の戦争政策にも影響を与えました。
関東軍の暴走と政府の対応:戦争への道筋
関東軍の度重なる暴走に対して、日本政府も手をこまねいていたわけではありません。当時の政府の対応をまとめました。
なお、満州事変発生時の内閣総理大臣である若槻礼次郎については以下の記事でくわしく解説しています。
内閣総理大臣・若槻礼次郎とは?政党政治と満州事変で揺れた内閣のリーダー像を解説
政府が関東軍の行動を制御できなかった理由
関東軍の行動が暴走する背景には、政府と軍部の関係が極めて不安定だったことがあります。
関東軍は中国大陸という遠隔地に駐屯しており、現地の状況に応じた迅速な決定が求められました。このため、陸軍中央や政府の指令を待たずに独断で行動することが多々ありました。
当時の日本には軍部大臣現役武官制という制度がありました。これは、内閣の軍部大臣には現役の軍人が就任するというルールで、軍部が人材を推薦しない限り内閣を組閣できないという強い拘束力を持っていました。
また、日露戦争囲以降、政府内部では軍部の影響力が強まり、関東軍の違法行為に対して強く出られない状況が続きました。さらに、関東軍の成功が大衆の支持を得る場合、政府が暴走を黙認する一因となりました。
軍部大臣現役武官制については、軍部大臣自ら制限しようとしていましたが、なかなか成果につながっていませんでした。その一人である山本権兵衛について、以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・山本権兵衛の生涯と業績:軍部大臣現役武官制の廃止に尽力した軍人政治家の功績
関東軍の暴走が引き起こした影響
関東軍の独断的な行動は、日本の外交政策に深刻な影響を及ぼしました。
満州事変やノモンハン事件など、国際社会からの非難を招く事件を繰り返し引き起こしたことで、日本は国際連盟を脱退し、孤立を深めました。
この孤立が太平洋戦争への道筋を作り出し、最終的に国全体を戦争へと巻き込む結果となりました。
石原莞爾の役割と思想:関東軍の象徴的存在
関東軍の暴走の裏には、その思想と戦略的リーダーである石原莞爾の存在がありました。
石原莞爾が描いた満州占領のビジョン
石原莞爾は、関東軍において最も有名な戦略家であり、「満州を日本の生命線」と位置づけました。
彼は、満州を日本の資源供給地として重要視し、その確保が日本の国益に直結すると考えました。この思想は、彼が主導した満州事変に表れており、戦争の計画と遂行において中心的な役割を果たしました。
石原のビジョンには、満州を日本の経済基盤として安定させることでアジア全域に影響力を広げるという壮大な計画が含まれていました。
満州事変やその後の政策への影響
満州事変は、石原莞爾の思想が実行に移されたものでしたが、国際社会の強い批判を招きました。彼の戦略は短期的には成功を収めましたが、満州国建国による外交的孤立や、さらなる軍事拡大への道を切り開く結果となりました。
石原の構想がその後の日本軍の行動に与えた影響は計り知れません。
石原莞爾の退役後と関東軍の変容
石原莞爾は1935年に関東軍を離れ、1936年には陸軍中央に戻りました。その後、彼の思想は軍部全体に浸透しませんでしたが、関東軍の暴走を止める力ともなりませんでした。
石原の退役後、関東軍はさらに独断的な行動を取るようになり、ノモンハン事件や太平洋戦争につながる道筋を進みました。
関東軍解体への道:第二次世界大戦とその後
日中戦争、そして第二次世界大戦がはじまると、中国大陸の関東軍は戦略上、さらに重要なものになっていきました。しかし、ノモンハン事件で露呈していた補給不足、物資不足の弱点がありました。
太平洋戦争中の関東軍の役割
太平洋戦争中、関東軍は満州を拠点に防衛体制を維持しながら、ソ連との潜在的な対立に備えていました。しかし、太平洋戦争の戦局が悪化するにつれ、日本全体の戦力が限界に達し、関東軍の防衛能力も低下していきました。
1945年の終戦直前には、関東軍の兵力は増強されたものの、戦力は質的にも劣化していました。
終戦とソ連進攻による関東軍の崩壊
1945年8月、ソ連軍が満州に進攻すると、関東軍はその膨大な兵力に圧倒され、ほとんど抵抗できませんでした。兵士たちは無秩序に撤退を余儀なくされ、多くが捕虜となりました。
この急速な崩壊は、関東軍の準備不足と指導力の欠如を露呈させました。
戦後の日本と関東軍の歴史的評価
戦後、関東軍の歴史的評価は、日本の侵略政策を象徴する存在として批判される一方で、その行動がもたらした国際的な教訓についても注目されています。
関東軍の暴走が日本の戦争責任や外交政策の失敗を象徴する例として語られる一方で、軍部と政府の連携の重要性についての反省材料となっています。
Q&A: 関東軍に関する疑問を解決する
Q1: 関東軍とは何ですか?その設立背景は?
A1: 関東軍は1906年、満州(現在の中国東北部)に駐留する日本陸軍部隊として設立されました。当初はロシア帝国との対抗を目的とし、南満州鉄道の守備や地域の治安維持を担っていました。しかし次第に、軍の影響力を利用した独自の行動を行い、日本政府の指示を無視することが多くなりました。
Q2: 「関東軍」と「陸軍」との違いは何ですか?
A2: 陸軍は日本全土および外地に展開する軍全体を指しますが、関東軍はその中でも特に満州に駐屯する部隊を指します。関東軍は現地の特殊な状況に対応するため、独自の戦略や行動を取りやすい環境にありました。このことが後に「関東軍の暴走」と呼ばれる行動を生み出す要因となりました。
Q3: 張作霖爆殺事件とは何ですか?関東軍が関与した理由は?
A3: 1928年、関東軍の一部が中国の軍閥指導者・張作霖を列車ごと爆破し暗殺しました。日本の中国進出を妨げるとみなしたためです。この事件は政府の承認なしに行われ、関東軍の独断行動の象徴的な例とされています。
Q4: 満州事変で関東軍が果たした役割は?
A4: 1931年、関東軍は柳条湖事件を引き金に満州事変を開始しました。この事件を中国側の仕業と偽装し、満州全域を制圧しました。その後、関東軍は満州国の設立を推進し、地域の支配権を確立しましたが、国際連盟からの強い非難を受け、日本は孤立を深めました。
Q5: 石原莞爾は満州事変にどのように関与しましたか?
A5: 石原莞爾は関東軍の戦略家であり、満州事変の計画立案者です。彼は「満州を日本の生命線」と位置づけ、経済基盤としての価値を強調しました。その戦略は一時的な成功を収めましたが、日本の国際的孤立を招く結果となりました。
Q6: ノモンハン事件とは何ですか?関東軍にとってどのような結果をもたらしましたか?
A6: ノモンハン事件は1939年、満州とモンゴルの国境地帯で起きた日ソ間の軍事衝突です。関東軍はソ連軍に大敗を喫し、その戦略と装備の欠陥を露呈しました。この失敗は、関東軍の限界と日本軍の課題を明確にしました。
Q7: 太平洋戦争中の関東軍の役割は?
A7: 太平洋戦争中、関東軍は主に満州で防衛任務を担い、ソ連との潜在的な対立に備えていました。しかし戦争終盤、ソ連が満州へ侵攻した際、関東軍は対応できず崩壊しました。
Q8: 関東軍の解体はどのように進みましたか?
A8: 終戦後、関東軍はソ連の進攻と日本の降伏により組織的な力を失いました。多くの兵士が捕虜となり、軍の影響力は完全に消失しました。この解体は日本の軍事体制の大きな転換点となりました。
まとめ
関東軍は、日本の軍事史において特異な存在であり、その活動は一方で国の利益を推進しましたが、他方では暴走による重大な結果を招きました。
張作霖爆殺事件、満州事変、ノモンハン事件といった歴史的な出来事は、関東軍の行動の影響を強く示しています。
また、「陸軍との違い」や石原莞爾の思想を理解することで、日本が進んだ戦争への道筋をより深く読み解くことができます。
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