貴族院は、明治時代の大日本帝国憲法下で設立された、日本の帝国議会の上院にあたる機関です。貴族院は、天皇を中心とする立憲君主制に基づき、立法や政策審議で重要な役割を果たしましたが、戦後の新憲法制定とともに廃止されました。
本記事では、貴族院の役割と変遷、そして現代政治に残した教訓について詳しく見ていきます。
貴族院の概要と役割
貴族院はかつて日本にあった上院です。どのようなものだったのか、概要やと役割を解説します。
貴族院の設立目的
まず、貴族院が設立された目的を紹介します。
貴族院設立の背景にある政治的意図
貴族院は、1889年の大日本帝国憲法制定に伴って設立されました。その目的は、明治政府の安定した統治を図り、天皇制の強化を図ることにありました。
明治政府は、明治維新を経て新たな近代国家を築く中で、政権を確立し、政治的安定を保つために議会制を採用する必要性を感じていました。そのため、下院である衆議院が民選で構成される一方、上院にあたる貴族院は、特権階級である皇族や華族、勅選議員で構成し、国民の意見が議会に直接影響しすぎないように工夫されました。
また、貴族院の設立は当時の日本が目指していた近代化の一環であり、欧米諸国、特に立憲君主制の影響を受けていました。
なお、明治維新については以下の記事でくわしく解説しています。
明治維新の時期と背景:幕末から維新へと至る道のりとその影響(活躍した人物の解説や主要出来事の年表付き)
日本の貴族院とイギリスの貴族院(上院)との違い
貴族院は、イギリスの上院である貴族院(House of Lords)を参考にして設立されましたが、日本独自の政治文化が反映されています。
イギリス上院は長い歴史を持ち、貴族や聖職者などで構成され、政治における保守的な意見の集約と法の安定を目的としていますが、日本の貴族院は天皇制を支えるための上院としての役割がより強調されていました。
日本の貴族院は、皇族、華族、そして勅選議員から構成され、国際的な影響を受けつつも、天皇を頂点とした国家体制の保護が主目的でした。また、イギリス上院とは異なり、明確に政府の安定を意図して設立されたことが日本の貴族院の特徴です。
貴族院の構成
貴族院はその設立目的が「政府の安定」にありました。そのため、貴族院を構成するメンバーにも特徴がありました。
皇族・華族が主要構成員
貴族院は、皇族、華族、そして勅選議員で構成されていました。皇族や華族は、明治政府が維新後に新たな階級制度を構築し、国家運営において天皇を中心とした体制を強固にするための存在でした。
皇族は、国家の象徴として議会に参加する立場にあり、華族は明治維新に功績のあった藩主や元武士などで構成されていました。華族の存在は、安定した政治を目指す明治政府にとって必要なものとされ、特に、元老や有力な貴族が政治的な決定に重要な役割を果たしました。
江戸時代で高い身分を得ていたこれらの人たちを明治政府内でも高位につけることで、政権の安定化を図っていました。そのため貴族院内でもこれらの上流階級出身者が多くを占めており、国家運営の決定に大きな影響を与えていました。
議員の任命と権限付与は天皇が行う
貴族院の議員は、皇族や華族以外にも勅選によって任命された者が含まれ、その任命プロセスは天皇によって行われました。これにより、貴族院には天皇が信任する者たちが多く集まり、国会の安定と保守的な政治の維持が図られていました。
勅選議員は、通常、官僚や軍人、学者など社会的に高い地位にある人物から選ばれることが多く、貴族院の中で重要な発言権を持っていました。
貴族院の権限は、衆議院と対等な立場で法案を審議する能力があり、特に憲法改正や財政に関する重要な議案については、貴族院の同意が必要でした。
貴族院の歴史と制度の変遷
設立後、貴族院の役割は時代に合わせて変化していきました。その推移をまとめました。
貴族院の設立から戦前まで
1889年の成立時の貴族院(大日本帝国憲法)
貴族院は、1889年に施行された大日本帝国憲法に基づき設立されました。この憲法において、帝国議会は二院制が採用され、下院にあたる衆議院と上院である貴族院が設置されました。貴族院の設立目的は、政府の安定と天皇制を支えることでした。
貴族院は、皇族や華族、そして天皇が任命する勅選議員によって構成され、政治的にも社会的にも高い地位にある者たちが議員として活動しました。この二院制の制度は、下院の衆議院が国民の意見を反映させる一方で、上院である貴族院は国家の安定と保守的な政治運営を支える役割を果たしていました。
戦前の貴族院の活動と影響
戦前の貴族院は、日本の政治において重要な役割を果たしました。特に、経済政策や対外政策において、貴族院の影響は大きかったと言えます。
貴族院には元老や有力な貴族、軍人、学者などが多く、彼らは政府の方針に対して保守的であり、時には慎重な意見を述べることがありました。例えば、戦争に関連する重要な法案や外交問題に関して、貴族院はその意見を反映させることがあり、衆議院とは異なる視点から国政に影響を与えることができました。
また、貴族院は憲法改正や国家予算に関しても審議権を持っており、その権限を活用して政府に対するチェック機能を果たしました。
戦後の改革と貴族院の廃止
戦後憲法改革の背景
第二次世界大戦後、連合国軍の占領下で日本は大きな政治改革を実施しました。新しい憲法である日本国憲法が制定される中で、民主主義の確立が最優先の課題となり、貴族院の廃止が決定されました(ウィキソース)。
新憲法では、旧来の貴族院のような特権階級が政治に影響を与えることがないようにするため、貴族院に代わる上院としての参議院が創設されました。参議院は、全ての議員が選挙で選ばれることになり、より民主的な体制が構築されることとなりました。
この改革は、旧来の支配層を排除し、国民の意見を反映する政治体制への移行を象徴しています。
「上院としての参議院」は現在も衆議院とは異なる立ち位置にあります。参議院の選挙制度や定数の変遷については、以下の記事でくわしく解説しています。
参議院選挙の重要性と制度改革:役割、選挙権・被選挙権、過去の選挙結果の傾向を探る
参議院の定数の変遷:参議院の人数が変化してきた経緯とその目的を解説します
貴族院廃止後の影響
貴族院廃止後、日本の政治制度は大きく変化しました。最も大きな影響を受けたのは、衆議院の地位です。
貴族院が廃止されたことで、国会を構成する衆議院および参議院が唯一の立法機関として機能するようになり、その重要性が増しました(衆議院HP)。
また、参議院の設立により、二院制の意味が再定義され、議会における議員の選出方法が民主的な選挙によって決定されるようになりました。これにより、日本の政治はより多様な意見を反映するようになり、国民の意見を反映した政治運営が進むこととなりました。
貴族院の廃止は、日本が進むべき方向として、より公平で民主的な社会を目指す重要なステップであったと言えます。
なお、現在の両院制については以下の記事でくわしく解説しています。
国会の仕事:国会の役割(唯一の立法機関)と構成(二院制や与党・野党の役割)を解説
貴族院と他の立法機関の関係
戦前の日本には、貴族院以外にも枢密院や元老院、衆議院もありました。貴族院とそれらとの関係性や役割の違いをまとめました。
枢密院との関係
枢密院との連携と役割分担
枢密院は、明治時代から戦前にかけて、天皇の最高諮問機関としての役割を担いました。一方、貴族院は立法機関として帝国議会における議論と法案の審議を担当していました。
両者の関係は、政治的な権限が異なりながらも、密接に協力していました。特に、枢密院は重要な政策や憲法改正において、天皇の意向を反映するための重要な機関であり、貴族院とは異なり、政治的な意見を集めて結論を出すという役割を持っていました。
貴族院はその一方で、国家の経済政策や軍事問題に関して議論し、実際の法案審議を行いました。このように、枢密院と貴族院はそれぞれ異なるが補完的な役割を果たし、政治の安定を支えました。
枢密院については以下の記事でくわしく解説しています。
枢密院の設立背景と役割:元老院や衆議院の関係性や機能の違いなど日本の政治機構とその影響を解説
憲法改正や重要政策における関係性
貴族院と枢密院は、特に憲法改正や重要政策において密接に連携していました。
枢密院は天皇に直接仕える機関として、政治の基本方針を決定する権限を有していましたが、貴族院はその方針に基づいて立法を行い、具体的な法律を制定しました。例えば、戦争の準備や憲法改正の際、両機関は協力し、重要な決定を支え合う形で進められました。
枢密院の意見が貴族院に反映されることによって、政府の意向がより強く反映された立法過程が生まれたのです。
こうした密接なつながりから、1924年には枢密院議長であり貴族院所属の清浦奎吾が内閣総理大臣に任命されるという経緯もありました。ただし、このときは第二次護憲運動で150日あまりという短期政権で終わっています。
清浦奎吾や護憲運動については以下の記事でくわしく解説しています。
清浦奎吾は何をした人なのか?内閣総理大臣としての役割や護憲運動との関りなどその生涯を解説
護憲運動とは?大正デモクラシーを象徴する民主化運動の背景と影響を解説
元老院とのつながり
元老院と貴族院の制度的つながり
元老院は、貴族院設立以前の明治初期に存在した上級議会機関で、天皇に対する助言機関として機能していました。元老院の設立目的は、国内外の重要な政策に関して天皇に助言を行うことでした。山縣有朋や黒田清隆、松方正義など、主に明治維新の元勲たちが任命されていました。
貴族院の設立は、この元老院制度の影響を強く受けており、元老院の機能を継承しつつ、より多様な議員を集めることを目指しました。
貴族院の設立時には、元老院で活躍していた多くの政治家や貴族が新たに貴族院に任命され、元老院の影響を色濃く反映させたと考えられています。
山縣有朋、黒田清隆、松方正義については以下の記事でくわしく解説しています。
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元老院の廃止と貴族院への移行
元老院は1890年の大日本帝国憲法発布にともなって廃止されます。元老院が廃止された後、貴族院はその役割を引き継ぎました。
元老院は、戦争準備や外交問題などにおいて重要な役割を果たしていましたが、その廃止後、貴族院が同様の政策決定機関として機能することとなりました。
貴族院は、元老院の制度的影響を反映しながらも、より広範な議員構成と法案審議のプロセスを取り入れました。この変化は、立法機関における民主的な機能強化とともに、国家の政策決定におけるバランスを保つ役割を果たすこととなりました。
貴族院と衆議院との関係性
帝国議会における両院制の意義
貴族院と衆議院の関係は、帝国議会の二院制における相互作用を示しており、その構造が日本の政治に与えた影響は大きいものでした。衆議院は直接選挙で選ばれる議員が構成する下院であり、貴族院は上流階級や勅選議員で構成される上院です。
この二院制の目的は、「衆議院による民意の反映」と「貴族院による保守的な意見の調整」を通じて、バランスの取れた政治を実現することでした。帝国議会における両院制は、法案審議において一方の院で決定された内容が、もう一方の院によって慎重に検討され、最終的に法的決定が行われるという重要な役割を担っていました。
こうした政治バランスを取っていたのが桂太郎と西園寺公望による桂園時代であったと評価されています。
桂太郎と西園寺公望については以下の記事でくわしく解説しています。
内閣総理大臣・桂太郎の経歴と功績:生い立ちや西園寺公望との関係性、総理大臣としての評価を紹介
内閣総理大臣・西園寺公望の生涯と業績:自由主義の政治家と立命館大学の開祖
議会内での権力バランス
衆議院と貴族院の間には、しばしば意見の対立が見られました。衆議院は民意を反映した選挙で選ばれた議員が多く、特に労働者層や農民層を代表することが多かったため、貴族院との間で政治的な意見が対立することがありました。
この意見対立は、しばしば法案審議や政策決定において調整過程を伴いました。貴族院は保守的な立場を取ることが多く、急進的な改革を推進する衆議院との間で意見が割れることがありました。
こうした対立は、政府の政策が一方的に進むことを防ぎ、政治における多様な意見を取り入れるための調整機能を果たしました。
貴族院に関係の深い内閣総理大臣たち
貴族院の設立は立憲政治への移行のスタートであり、天皇中心の政治とのバランスでした。歴代の内閣総理大臣による政権運営の方針にも、貴族院との関係がかなり影響しています。
伊藤博文と貴族院の創設
貴族院の初代議長に就任したのは初代内閣総理大臣でもある伊藤博文でした。伊藤博文と貴族院との関係について解説します。
なお、伊藤博文については以下の記事でくわしく解説しています。
初代内閣総理大臣・伊藤博文は何をした人か|幕末から明治にかけての評価と暗殺事件の経緯を解説
伊藤博文の憲法制定と貴族院設立
伊藤博文は、大日本帝国憲法(明治憲法)の制定を主導し、その中で帝国議会の二院制を導入しました。
この二院制の一環として設立された貴族院は、上院として、政府や天皇の意向を反映する機能を持つことを意図していました。伊藤は西洋の立憲主義をモデルに、議会制度を整備しようとしたのですが、その中で貴族院は、貴族や有力者を中心に構成され、国政の安定と天皇制の強化を図るために重要な役割を果たすことが期待されていました。
立憲君主制の確立と貴族院の意義
立憲君主制の確立において、貴族院は議会の中で保守的な役割を果たすことが求められました。伊藤博文は、日本の政治における安定を確保するために、貴族院が民意の代表である衆議院に対して対等または上位の立場を持つことを意図していました。
貴族院は、国政における保守的な意見や天皇の意向を反映する場として機能し、また戦争や外交政策において政府と協力し、立憲君主制のもとでの政府運営を支える役割を果たすことが期待されました。
清浦奎吾内閣と貴族院
先述のように、清浦内閣は貴族院と枢密院を中心とした内閣でした。
清浦奎吾と貴族院の関係
清浦奎吾内閣は、貴族院と密接に連携して政権を運営しました。特に貴族院での支持を得ることで、政府の政策を実行に移す際に強い後押しを得ました。
貴族院内には、政府に有利な立場を取る貴族や保守層が多く、その支持を基盤として、清浦内閣は政治的安定を維持しようとしました。このように、貴族院と清浦内閣の関係は相互に利益をもたらすものであり、政権の存続に寄与しました。
貴族院が清浦内閣に与えた影響
清浦内閣が貴族院の支持を得て、政策の実現を推進したことは、貴族院の影響力を示しています。特に、内閣の重要な決定において、貴族院の意見が反映されることで、清浦内閣は安定した政治運営が可能となりました。
貴族院内では政府への支持が多く、内閣の政策に対する賛同が多かったため、清浦内閣は貴族院を通じて政策を有利に進めることができました。
ただし、立憲政友会、憲政会、革新俱楽部の護憲三派からそっぽを向かれたことで5か月あまりの短命政権に終わりました。
山縣有朋の政治と貴族院
明治維新の元勲のひとりである山縣有朋は、明治から大正にかけて貴族院を重視した政治家でした。
山縣有朋が貴族院に果たした役割
山縣有朋は、明治時代から大正時代にかけて政治に大きな影響を与えた人物で、貴族院の設立にも深く関わりました。彼は、貴族院の成立において重要な役割を果たし、政府の意向を貴族院に反映させるための政治的手腕を発揮しました。
彼の影響力は、貴族院の政策決定において重要な位置を占め、特に軍事政策や外交政策において強い影響を持っていました。
貴族院を通じた政治的影響
山縣有朋は、貴族院を通じて日本の政策に大きな影響を与えました。特に、軍事制度の強化や外交政策の決定において、貴族院を利用して自らの意見を反映させました。
貴族院の枠組み内で、彼は保守的な立場を貫き、政府の方針に沿った形で議論をリードしました。また、貴族院内での影響力を利用して、長期にわたる政治的支配を実現しました。
桂太郎と衆議院の変遷
明治維新の元勲の次の世代として貴族院を重視した総理大臣は桂太郎でした。
桂太郎が貴族院に与えた影響
桂太郎は、貴族院の活動においても強い影響力を持っていました。彼は、貴族院を通じて政策を実行し、衆議院との調整を図ることで、政府の意向を貴族院に反映させることができました。
特に、桂は貴族院での調整を通じて政府の立場を強化し、政策の実行を促進しました。また、彼は貴族院を戦略的に利用し、自らの政治的立場を強化するためにその力を活用しました。
桂太郎内閣と衆議院の立場
桂太郎内閣は、衆議院と貴族院の関係を非常に重要視しました。彼は衆議院と貴族院の間でのバランスを保ち、必要に応じて両院を調整しながら政策を実行しました。
特に、衆議院での支持を背景に貴族院を動かすことで、桂太郎は政治的な安定を確保し、自己の権限を強化しました。彼は、両院の調整を通じて、議会の機能を強化し、政権の持続可能性を確保するために多大な努力をしました。
貴族院が現代政治に残した影響と教訓
1947年の日本国憲法発布で貴族院は廃止されました。貴族院の存在やその廃止は現代の政治にも影響を与えています。
貴族院の廃止後に残された教訓
貴族院の廃止は日本の民主化を目指すGHQの指導によるものでした。
民主主義の成熟と貴族院廃止の意義
貴族院の廃止は、日本における民主主義の発展と国民による政治への関与拡大において非常に重要な意味を持っています。貴族院は、皇族や華族、天皇によって任命された勅選議員など、主に特権階級から構成され、国民全体の意思を代表するものではなく、むしろ国家の安定と保守を目的とした存在でした。
そのため、戦後に民主主義体制が確立される過程で、国民の意見が直接反映される議会を作る必要性が生まれ、貴族院の廃止が不可欠とされました。
1947年に日本国憲法が制定され、貴族院が参議院へと改組されたことで、二院制は維持しながらも、両院が国民の意思を反映する機関へと生まれ変わりました。これにより、国民が選挙を通じて議員を選び、自らの意見が国政に反映される仕組みが実現しました。
この改革は、特権階級による政治支配からの脱却を象徴し、民主主義国家としての日本の成熟化につながりました。
特権階級の影響力とその教訓
貴族院の存在は、特権階級が政治にどのような影響を与え、国家運営に安定をもたらす反面、民意を反映しないリスクがあることを示しました。
特権階級である皇族や華族、勅選議員が国会の上院を占めることにより、彼らの価値観や利益が政策に反映されやすくなりました。そのため、貴族院が存在した時代の政治は、安定と保守が重視される一方で、変革や革新を促進する力が不足していました。
この教訓は、現代の日本においても「誰が政治に関与するべきか」という根本的な問いを提示しています。特権階級や一部のエリート層が国政に安定をもたらす一方、社会全体の意見が反映される機会が制限されることの危険性も指摘されています。
したがって、戦後の日本の議会は国民の幅広い声が反映される構造へと移行し、民主主義の理念に基づく政治体制の発展に貴族院の教訓が生かされています。
なお、一部のエリートによって政治を回す考えをエリート主義と呼び、ポピュリズムと対比されます。それぞれにメリット・デメリットがあります。エリート主義やポピュリズムについては以下の記事でくわしく解説しています。
エリート主義の影響と問題点は何か?経済的不平等やポピュリズムとの関係などを日本とフランスの実例から紹介
ポピュリズムとは?現代の政治思想と日本への影響を簡単に解説(エリート主義との違いなど)
貴族院の歴史的役割から学ぶ現代政治
現代の立法機関における教訓
貴族院の役割とその制度から学べる教訓は、現代の日本の国会や立法機関にも多くの示唆を与えています。貴族院が果たしていた「慎重な政策審議」や「安定した政治の維持」は、現代の参議院にも求められる役割です。
特に、参議院が衆議院の決定に対して熟慮した上での判断を行う「良識の府」としての役割は、貴族院がかつて担っていた安定的な政策審議と同様の意義を持っています。また、特権階級ではなく、国民全体から選ばれる参議院の仕組みは、貴族院とは異なり、より多様な意見が反映される点で、社会全体のバランスの取れた政策決定を目指しています。
これにより、現代の日本では特定の階層の利益に偏らない民主的な政策運営が可能となり、貴族院の制度的欠陥を克服しています。
参議院と衆議院の両院制では、選挙結果によって「ねじれ国会」が発生することがあります。ねじれ国会になると法案成立がむずかしくなるなどのデメリットもありますが、与党内での改革にもつながります。
ねじれ国会については以下の記事でくわしく解説しています。
ねじれ国会とは:法案成立など国会運営に及ぼす影響などメリット・デメリットや過去の実例を解説
現在の参議院との違いとその影響
現在の参議院は貴族院とは異なり、国民が選挙で選出した議員から構成されており、その存在意義も大きく変化しました。
貴族院が設立当初の目的として、特権階級の意見を国家運営に反映させ、国家の安定を図ったのに対し、参議院は民意を尊重する形で国会における抑制と均衡を実現しています。
二院制の一部としての参議院は、衆議院と異なる視点から政策を見直す役割を担い、特定の政党に偏ることなく国民全体の利益を守ることを使命としています。
このように、貴族院と異なり、参議院は特権階級に代わる国民全体の意思を反映するための機関として、現代日本の二院制の根幹を支えています。貴族院が担った安定と保守の意義は参議院に受け継がれつつ、より民主的で公平な議会構成が実現されています。
貴族院についてのQ&A
Q1: 貴族院はいつ設立されましたか?
A1: 貴族院は1889年の大日本帝国憲法の下で設立されました(発布は1890年)。日本の立法機関の一部として上院の役割を果たし、帝国議会の二院制を確立しました。
Q2: 貴族院の構成はどのようになっていましたか?
A2: 貴族院は皇族、華族、そして勅選議員で構成されており、上流階級や高官が議員として任命されました。議員は天皇の任命により選ばれ、立法過程において重要な役割を担っていました。
Q3: 貴族院の設立目的は何ですか?
A3: 貴族院の設立は、立憲君主制の確立と天皇制の強化を目的としていました。また、政府と天皇の意向を反映させるための保守的な役割を担いました。
Q4:貴族院とイギリス上院との違いは何ですか?
A4: 貴族院はイギリス上院を参考にしつつ、日本の政治文化に合わせて設計されました。特に、貴族院の議員は皇族や華族、勅選議員から構成され、上流階級や官僚出身者が多かった点で異なります 。
Q5:貴族院と戦前の衆議院の関係は?
A5: 貴族院は、衆議院とは異なる機能と役割を持っていました。衆議院が民意を反映する議会であったのに対し、貴族院は保守的な上流階級の意見を集約する場として機能し、議会内での対立を調整する役割を担いました。また、両院制によって政治の安定を図ることが目指されていました 。
Q6: 貴族院はいつ・どのように廃止されましたか?
A6: 第二次世界大戦後、連合国軍の占領政策により日本の政治制度が民主化され、1947年に新しい日本国憲法が施行されました。このとき、貴族院は廃止されました。これにより、衆議院の地位が強化され、現在の二院制の基本が形作られました。
Q7: 貴族院が日本の政治に与えた影響は?
A7: 貴族院は、日本の立法機関の中で保守的な立場でした。戦前の政策決定において重要な影響を与えましたが、戦後の民主化の流れで廃止され、より民主的な議会体制へと移行しました。
Q8: 現在の参議院との違いは何ですか?
A8: 現在の参議院と貴族院の主な違いは、構成方法と選出方法にあります。貴族院は、主に天皇による任命や華族を基盤にしており、議員は世襲や勅任で選ばれました。その目的は、保守的な上流階級の意見を集約し、政治の安定を図ることにありました。
参議院は、選挙で選ばれた議員から構成されており、民主的な原則に基づいています。参議院は衆議院と同様に選挙によって議員が選ばれ、すべての国民に平等な参政権が保障されています。参議院は、民主ための重要な機関として、立法過程で衆議院と役割を分担し、対等な関係を維持しています。
また、貴族院は上流階級の意見を政治に取り入れるための場であり、特定の層の意見のみを反映していました。一方、現代の参議院は全国民の意見を反映するための場として、より広範な政治的代表性を持っています 。
まとめ
貴族院は日本の立法機関の中で重要な役割を果たした上院として、明治憲法下で設立されました。
伊藤博文がその設立を主導し、立憲君主制を確立するために重要な役割を担いました。
貴族院は、政府や天皇の意向を反映させる保守的な機能を持ち、国政に大きな影響を与えました。戦後、連合国軍による占領政策と民主化の進展に伴い、貴族院は廃止され、日本の立法制度は衆議院主導に移行しました。
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