護憲運動は20世紀初頭の日本において、国民の憲法遵守と民主主義の価値を守るために行われた大規模な政治運動です。この運動は、政党や民衆が一体となって権力を監視し、国民の意思を反映した政治の実現を求めるものでした。
特に、清浦奎吾内閣の「超然主義」による政党軽視に反発し、議会政治の尊重を求めた護憲三派(憲政会、立憲政友会、革新倶楽部)の結成が護憲運動の象徴となりました。
この記事では、護憲運動が始まった背景や経緯、そして現代における評価や影響について詳しく解説します。
護憲運動とは?その意味と目的
護憲運動は、「大正時代の日本で行われた一連の政治運動で、政府が民主的な憲政を尊重し、政党政治を確立することを目指す運動」でした。
この運動の根幹にある「護憲」とは、憲法と憲政の尊重を求める姿勢を指し、憲法に基づく立憲政治の維持と強化がその目的でした。
護憲運動の概要
護憲運動は、政党政治が未成熟だった大正時代に、政府が憲政を無視した政治運営をすることに対する市民や政治家の強い反発として始まりました。
「護憲」という言葉には、当時の憲法(明治憲法)に基づいた政府運営を守り、民主的な手続きを経た政党政治を定着させる意義が込められています。
護憲運動には2つの大きな潮流があり、1912年からの第一次護憲運動、1924年からの第二次護憲運動がそれぞれ違う政権に対する反発から生まれました。
第一次護憲運動は、1912年に西園寺公望内閣が倒れたことを機に、政党が支持する民意を反映した政府を求めて起こされました。
一方、1924年の第二次護憲運動は、清浦奎吾内閣が政党の意見を無視し、官僚や貴族院議員によって構成される「超然内閣」として発足したことに対する反発として広まりました。この運動は、憲法に基づく立憲政治を守るため、護憲三派(憲政会、立憲政友会、革新倶楽部)が協力して行われました。
※清浦奎吾については、以下の記事でくわしく解説しています。
清浦奎吾は何をした人なのか?内閣総理大臣としての役割や護憲運動との関りなどその生涯を解説
大正時代の政治状況
大正時代には、明治から続く天皇を中心とした官僚支配の体制が依然として根強く、政党の発言力は限定的でした。特に清浦奎吾内閣の成立に見られるように、内閣が天皇の権威を盾に政党政治を軽視する「超然主義」を取ることが問題視されていました。
清浦内閣は、議会で多数を占める政党の声を無視し、主に貴族院議員や官僚により構成されており、民意の反映が乏しいとされました。
※貴族院については以下の記事でくわしく解説しています。
貴族院とは?日本の歴史的な立法機関とその役割(現代への影響や戦前の内閣との関係、参議院との違い)
政党や市民の間でこうした状況に対する反発が高まり、清浦内閣を打倒し、立憲政治と民主的なプロセスを尊重する政府の確立を目指した動きが第二次護憲運動へとつながりました。
※明治維新については以下の記事でくわしく解説しています。
明治維新の時期と背景:幕末から維新へと至る道のりとその影響(活躍した人物の解説や主要出来事の年表付き)
民主主義と立憲政治の重要性
護憲運動では、民主主義の価値と、民意を反映する政党政治の重要性が強調されました。
立憲政治は、憲法の下での法治や権力分立を基礎とし、政府が独断的に権力を行使することを防ぐものです。特に護憲運動が訴えたのは、政治が国民の意思を尊重し、透明性のある民主的な手続きを踏むべきであるという考えでした。
この運動により、政党政治が発展し、日本における民主主義の礎が築かれていきました。護憲運動は、日本の政治において市民の権利と立憲主義を再確認させ、後の日本の民主政治の発展に重要な影響を及ぼしました。
護憲運動の発端と経緯:護憲三派の結成
護憲運動は、大正時代の日本で立憲主義を擁護するために起こった二つの主要な運動を指してます。
特に1924年の第二次護憲運動が著名です。
この運動の中心には、「護憲三派」として知られる憲政会、立憲政友会、革新倶楽部という三つの政党がありました。これらの政党は、官僚主導の政治に対抗し、民意を反映した政党政治の確立を目指して連携しました。
護憲三派の形成:清浦内閣打倒の背景
護憲三派が結成された背景には、1924年に発足した清浦奎吾内閣への強い反発がありました。清浦内閣は、天皇の信任を背景に官僚と貴族院議員を中心とした「超然内閣」として成立し、政党を軽視する姿勢を打ち出しました。
これは議会制民主主義の発展を求める世論に反するもので、多くの政党や市民が「憲政の本旨」に反するとして批判しました。
※議会制民主主義については以下の記事でくわしく解説しています。
議会制民主主義とは:議会制民主主義の仕組みやメリット・デメリットと今後の展望を解説
清浦内閣の誕生により、政党政治の基盤が揺らぎかねないという危機感が高まりました。これを受け、憲政会(後に立憲民政党に改称)、立憲政友会、革新倶楽部の三派が護憲三派を結成し、清浦内閣の打倒と立憲主義の確立を共通の目標に掲げました。
三派の連携は、従来の党派の垣根を越えた協力体制を示し、日本政治における政党間連携の重要性を示すものでした。
清浦内閣への反対と護憲運動の始動
清浦内閣は、貴族院と官僚を主体とした政治運営を行い、衆議院で多数を占める政党を無視する超然主義を採用していました。これは国民の意思を反映する議会制民主主義に逆行するものと見なされ、反発が強まりました。
政党政治を軽視する清浦内閣の姿勢に対し、護憲三派は立憲主義と民主主義の擁護を掲げ、清浦内閣打倒に向けた護憲運動を開始しました。
この運動は、立憲主義を守り、民意を反映した政治を求める国民の支持を集め、全国に広がりました。清浦内閣は、護憲運動の圧力に屈し、1924年に総辞職に追い込まれました。在任期間150日あまりという短命政権となってしまいました。
※関連記事:歴代総理大臣の在任期間ランキング・ワースト順で解説!ワーストの理由(背景)や短命政権の共通事項とは?
この運動によって政党内閣の重要性が再認識され、以降の日本政治においても政党政治が徐々に強化されるきっかけとなりました。
第一次護憲運動と第二次護憲運動の違い
護憲運動には1912年の第一次護憲運動と1924年の第二次護憲運動がありますが、両者には重要な違いがあります。
- 第一次護憲運動: 1912年、第二次西園寺公望内閣が軍部の圧力に屈して総辞職したことを機に始まりました。当時の内閣が民意を無視し、軍部の意向を重視した政治を行ったため、政党や市民が立憲政治の確立を求めて運動を展開しました。この運動は、政党の役割を拡大するきっかけとなりましたが、十分な成果を上げるには至りませんでした。
- 第二次護憲運動: 一方で、1924年の第二次護憲運動は、清浦奎吾内閣の「超然主義」が直接のきっかけとなり、より具体的な政党連携のもとで展開されました。護憲三派の結成による連携が特徴であり、清浦内閣の崩壊をもたらすなど、第一次護憲運動に比べて大きな政治的成果を上げました。
第二次護憲運動は、政党政治の確立と立憲主義の保護を具体的に追求し、その結果、日本における政党内閣制の進展に寄与しました。この運動は、日本の近代政治史における重要な転換点となり、以降の日本の民主主義と立憲政治の発展に大きな影響を与えました。
護憲運動の象徴的な出来事:大衆の支持と影響力の増大
護憲運動は大正デモクラシーの象徴であり、特に大衆の行動が政治に強い影響を与えました。この運動は民衆のデモ、報道の役割、そして全国的な支持を集めることで、立憲主義と民主主義の価値を再認識させました。
民衆のデモと集会
護憲運動の中で行われた民衆のデモや集会は、その規模と熱意で注目されました。
特に、1924年の「護憲三派」の結成を背景に全国的な反清浦内閣のデモが頻繁に行われ、数千人規模の市民が集まり、護憲を訴える声を上げました。
これらのデモは、当時の権力に対する強い不満と、政党政治への期待を表しており、政権に対する圧力を増幅させました。大衆が直接行動することで、護憲運動の意義が広まり、政府は民衆の要求を無視できない状況に追い込まれていきました。
報道とメディアの影響
新聞や雑誌といったメディアも護憲運動を支援し、民意の形成に重要な役割を果たしました。特に新聞各紙は、護憲運動の集会やデモを詳細に報道し、清浦内閣の政党軽視姿勢を批判しました。
メディアが積極的に護憲運動を報じたことで、政治問題が多くの人々に知られるようになり、地方にもその影響が及びました。新聞記事を通じて広がる護憲運動の声は、大衆の政治意識を刺激し、立憲政治への関心を高め、運動への支持を促進する要因となりました。
全国的な支持拡大
護憲運動は、当初は都市部の政治家や有識者によるものでしたが、次第に地方にもその支持が広がりました。地方の住民や労働者層もこの運動に共鳴し、各地で小規模な集会やデモが行われるようになりました。
護憲運動は単なる政治的な出来事にとどまらず、全国的な国民運動としての性格を帯びていきました。
なお、同じく多数の国民による全国的な動きである「米騒動」も当時の寺内内閣を総辞職させた運動として有名です。米騒動については以下の記事でくわしく解説しています。
米騒動の原因と影響とは?寺内正毅内閣の対応とシベリア出兵との関連やその後の影響を解説
また、米騒動で辞職した寺内正毅については以下の記事でくわしく解説しています。
内閣総理大臣・寺内正毅は何をした人か:その生涯と政策、後世の評価を解説(朝鮮総督府、米騒動など)
護憲運動の結果と影響:短命政権と政党政治の成長
護憲運動は、日本の政党政治や民主主義の発展において重要な役割を果たしました。この運動の結果、政権交代が起こり、政党政治の基盤が強化されるとともに、民衆の政治参加意識も高まりました。
清浦内閣の退陣とその後の政局
護憲運動の影響を受け、清浦奎吾内閣はわずか5か月という短命政権に終わりました。護憲三派(憲政会、立憲政友会、革新倶楽部)が連携して清浦内閣への対抗勢力を形成し、議会内外で強い批判と反発を展開したためです。
この運動は大衆の支持を得て、全国的な護憲デモや集会が行われ、清浦内閣に大きな政治的プレッシャーをかけました。
結果として、清浦内閣は退陣を余儀なくされ、1924年には護憲三派を中心とする加藤高明内閣が成立しました。
この政権交代は、議会政治と民意が政権の存続に直接影響を与える力を持つことを示した象徴的な出来事でした。
なお、短命政権と長期政権での内閣総理大臣のリーダーシップの違いについて以下の記事でくわしく解説しています。
内閣総理大臣の役割とリーダーシップ:長期政権と短命政権の違いを実例をまじえて解説
政党政治の確立
護憲運動の成果として、政党政治の重要性が再認識され、日本の政治体制の中で政党の役割が一層強調されるようになりました。
加藤高明内閣は、政党内閣として機能し、立憲主義のもとでの政治運営を目指しました。これにより、議会と政府が連携する政党政治が実現し、民主的な統治が強化されました。
さらに、この時期に成立した政党内閣は、政党が政策決定に深く関わり、民意が反映されやすい体制を作り上げました。護憲運動が政党政治を推進し、その後の日本政治においても政党の影響力が拡大していった点は、特筆すべき成果といえます。
護憲運動がもたらした教訓
護憲運動の結果、民意の力と政治参加の重要性が広く認識されました。大衆の支持を受けた護憲運動は、政治家や政党だけでなく、一般市民も自らの声を上げ、政治に影響を与えることができるという意識を高めました。
護憲運動が示した「民衆の力」は、後の民主主義運動や労働運動にも影響を与え、日本における政治参加の価値を広めるきっかけとなりました。この運動は、立憲主義の尊重と民衆の政治的権利の重要性を訴え、政治の透明性や民主主義の意義を国民に再確認させるものとなりました。
護憲運動は、日本の近代政治史において重要な一幕であり、その影響は後世にわたって政治意識と政党の役割に影響を与えました。
護憲運動の評価と現代への影響
これまでお伝えしたように、護憲運動は大正デモクラシーの象徴的な出来事であり、日本の立憲政治と民主主義の発展に大きく寄与しました。
護憲運動は当時の権力構造に対抗し、国民が憲法に基づいた政治の実現を強く望む姿を示したと評価されています。
以下に、護憲運動が現代にどのような評価と影響を与えているかを解説します。
護憲運動の評価
現代において、護憲運動は日本の民主化の原点の一つとされています。歴史学的には、大正時代の護憲運動は単なる政権交代の運動ではなく、憲法に基づく政治の実現を目指した市民による意思表示であったとされています。
当時の日本は天皇中心の専制政治が色濃く残っていた一方で、議会制民主主義の潮流が進みつつありました。
この運動は、清浦奎吾内閣の「超然主義」(政党や議会の影響を排除する立場)に反発し、民意を政治に反映させることを求めるものでした。護憲運動が広範囲の支持を得たことで、日本における立憲主義と民主主義の重要性が認識され、歴史学的には民衆の力が政治を動かす可能性を示した先例と評価されています。
現代の憲政における護憲運動の影響
護憲運動は現代日本の政治文化にも影響を与えています。現在の憲政下での護憲派・改憲派の議論においても、護憲運動が掲げた「憲法に基づく政治運営」の重要性が引き合いに出されることがあります。
この運動が示したのは、憲法は単なる法文ではなく、政治の正当性と国民の権利を保障するものであるという考え方です。
現代における憲法改正の議論でも、護憲運動を通じて国民が政治に参加し、政治に対して責任を持つ姿勢が重要視されています。
また、戦後の日本国憲法が定める「立憲主義」や「国民主権」の理念の根幹にも、護憲運動が遺した市民参加の意識が根付いているといえるでしょう。
護憲運動が残した課題
護憲運動は一定の成功を収めましたが、日本の政治において依然として残る課題も指摘されています。
第一に、護憲運動は「民意が政権交代を実現させる力がある」ことを示したものの、その後の日本政治において、民意と政治が乖離する状況も多く見られます。現代においても、政治における透明性や市民参加の促進は未解決の課題として残されています。
第二に、護憲運動は政党政治を発展させたものの、政党間の権力争いが優先され、政策の持続性や一貫性が欠ける問題も生じています。この点は、現代の日本政治においても、政権が変わるごとに政策が大きく転換する事例に見られ、政策の安定と連続性の確保が求められています。
なお、政治の透明性について、たびたび政治資金収支報告書の問題が取りざたされ、政治資金規正法の改正につながっています。これらの課題と現状については、以下の記事でくわしく解説しています。
政治資金収支報告書とは:収支報告の報告義務はどこまで?違反するとどうなる?
政治献金とは何か:政治資金規正法ができた背景や個人が政治献金をするメリットや注意点を解説
護憲運動が残した「民意を尊重する政治の実現」という教訓は、現代でも民主主義の根幹として重要であり、日本の政治文化の中で改めて考えるべきテーマとなっています。
まとめ
護憲運動は、清浦奎吾内閣の退陣を引き起こし、政党政治の成長を促進する大きな転機となりました。この運動を通じて、日本の政治における民主主義と立憲主義の重要性が広く認識され、現代にもその影響を与えています。
護憲運動の教訓は、民意を尊重する政治の必要性や国民の政治参加の意義を改めて問いかけており、今日の憲法改正の議論や民主主義の発展においても参考とされています。
【参考】
Wikipedia
ジャパンナレッジ
法政大学・大原社会問題研究所
九州大学 国分航士「清浦内閣批判と「宮中問題」に関する試論」
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