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ワシントン海軍軍縮条約の背景と影響 – 原敬、加藤友三郎の貢献と日本の外交戦略

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ワシントン海軍軍縮条約の日本側資料 まとめ
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ワシントン海軍軍縮条約は、1921年に開催された国際会議を経て締結され、世界の海軍軍縮を進める重要な契約となりました。この条約では、主要な海軍国間で艦船の保有比率を決定し、軍拡競争の抑制を目指しました。

日本は当初、強い抵抗を示しながらも、原敬首相と加藤友三郎海軍大臣のリーダーシップにより、合意に至ります。

本記事では、条約の背景や日本の立場、加藤友三郎の重要な貢献を掘り下げ、軍縮条約が与えた影響を振り返ります。

【参考】
乗り物ニュース
外務省
Wikipedia

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ワシントン海軍軍縮条約の概要と目的

国際平和と軍縮の重要性

ワシントン海軍軍縮条約は、第一次世界大戦後の軍拡競争を抑制し、国際平和を保つために策定された重要な契約です。各国は海軍の規模を制限し、軍事衝突のリスクを減らすことを目指しました。特に、米国、英国、日本、フランス、イタリアなどの海軍大国が参加し、軍事的な緊張緩和を図りました。この条約は、国際社会の新たな秩序作りに貢献しました。

戦艦比率と日本の立場

条約の中で、戦艦の保有比率は米国、英国にそれぞれ100、日本が60、フランスが60と定められました。

日本側にとってこの比率は当初、好ましくないと考えられていました。ところが当時の原敬総理大臣と加藤友三郎海相は、このワシントン海軍軍縮条約の受け入れを承知しました。

日本は対米6割の比率を受け入れることで、戦争回避と経済的な安定を選択したのです。

というのも、当時の日本の戦艦建造数はアメリカの5割程度と目されており、6割であればむしろ上々。さらに「国際平和に貢献する日本」という協調外交の印象を残して、国際的な地位向上にも利するものでした。

戦艦の主砲

補助艦とロンドン軍縮会議

ワシントン条約では、補助艦の削減については具体的に言及されていませんでした。この問題は後のロンドン海軍軍縮会議で詳細に議論され、補助艦の数や規模に関する新たな基準が設けられることとなりました。

これにより、各国の海軍は戦艦だけでなく補助艦の整備にも注力するようになり、さらなる軍縮が進められることとなりました。

未来の軍備制限への道

ワシントン海軍軍縮条約は、主要海軍国の間で戦艦の保有比率を定め、軍事力を制限することで平和を維持するための重要な一歩でした。

日本にとっては、米国との軍事競争を避けるために戦艦比率を受け入れ、補助艦の問題は後のロンドン会議に託されました。

原敬総理大臣と加藤友三郎海軍大臣の役割とリーダーシップ

原敬総理大臣の外交方針

原敬は、ワシントン会議での日本の外交政策を指導し、国際社会との調和を図るために尽力しました。彼は、米国との良好な関係を維持しつつ、軍縮交渉で日本の利益を守ることに成功しました。

また、原は日本の平和的外交政策を強調し、条約締結に向けた準備を整えました。

加藤友三郎の冷静な軍事的判断

加藤友三郎は、海軍大臣として日本の軍縮交渉を支え、特に軍事面での調整を担当しました。加藤は、米国との軍縮比率に関して冷静に計算し、日本が戦争を避けるためには合意することが最も賢明であると考えました。

海軍軍縮会議の日本側チーム内では、条約調印に強く反対する声がありましたが、加藤はそれを抑え込み、調印に持ち込みました。

彼の冷静な判断力により、日本は不利な状況を乗り越えました。

両者の協力関係と成功

原敬と加藤友三郎は、それぞれ異なる分野で重要な役割を果たしましたが、協力して日本の外交戦略を形成しました。

原の外交努力と加藤の軍事的判断が相乗効果を生み、日本はワシントン海軍軍縮条約で一定の成功を収めました。

二人のリーダーシップは、条約締結の重要な要素となったのです。

原敬や加藤友三郎については以下の記事でくわしく解説しています。
内閣総理大臣・原敬とは何した人か?日本初の政党内閣・平民宰相としての業績と暗殺の経緯を振り返ります
内閣総理大臣・加藤友三郎とは?ワシントン海軍軍縮条約を結んで世界から賞賛された名宰相

「戦艦比率問題」と日本の立場

戦艦比率問題の発端

ワシントン海軍軍縮条約では、参加国の海軍力を比率で規定することが中心的な議題となりました。

1914-1918年の第一次世界大戦ではそれまでの戦争とは比較にならないほど大きな経済的・人的損失を各国が経験しました。それを避けるための国際協調・国際秩序の維持が一部の強国の間で主張されていました。

日本は当初、米国や英国に匹敵する海軍力を維持しようとしましたが、国際的な協調を図るためにはその比率を受け入れる必要がありました。

比率問題は、日本の国力と軍事戦略に大きな影響を及ぼしました。

日本にとっての妥協案

日本は、米国や英国との軍縮比率で妥協することにより、軍事的な均衡を保ちつつ、戦争を避ける道を選びました。特に、米国との戦争が経済的に不可能であると認識し、6割の比率に同意することは、長期的な平和を維持するための重要な戦略となりました。

この決断は、当時の日本の外交力と戦略的視野の確かさを示しています。

比率問題の後遺症と影響

比率問題は、条約締結後の日本国内で一定の反発を呼びました。軍事的な強硬派からは、この妥協案を批判する声も上がり、後に二・二六事件や日本の軍備拡張に繋がる原因ともなりました。

※二・二六事件についてはこちらの記事でくわしく解説しています。
※二・二六事件で暗殺された高橋是清について、こちらの記事で解説しています。

しかし、国際的な平和を維持するための重要な一歩として、この比率問題は世界的に評価されています。

ワシントン海軍軍縮条約の影響とその後の日本外交

日本の平和的外交戦略の確立

ワシントン海軍軍縮条約は、日本の外交において平和維持と国際協力を重視する方向に転換させました。

条約を通じて、日本は軍拡競争から距離を置き、経済力と軍事力のバランスを取ることに成功しました。この平和的外交戦略は、後の日本外交に多大な影響を与えました。

国内反発と軍備拡張への道

条約の締結後、日本国内では軍備縮小に対する反発が強まりました。特に軍部や一部の政治家は、軍縮条約を日本の主権を脅かすものと見なし、軍備拡張を求める声が高まりました。

この反発は、後の日本の軍事的な強化を導く一因となったのです。

日本外交の変化とその影響

ワシントン海軍軍縮条約後、日本の外交は平和的アプローチを維持しつつも、軍事的な自主権を強化しようとする方向に進みました。

条約締結後、外交政策においては経済と軍事力の両立を図る必要があり、これが後の日本の国際的な立場に大きな影響を与えました。

ワシントン体制崩壊までの流れ

ワシントン海軍軍縮条約の締結と日本の立場

ワシントン海軍軍縮条約は1922年に米英仏日伊の五大国間で結ばれ、戦艦の保有比率が決定されました。日本は米英に対して60%の比率での保有を許されましたが、この制約により、日本は国防における制限を受け入れる形となりました。

当時の日本政府は経済的負担を減らす意図もあり、この比率に同意しましたが、内外での不満が蓄積し始めます。

軍縮への不満と軍国主義の台頭

昭和期に入り、軍縮条約の影響で軍備増強が制約される中、軍部や一部の政治家からの不満が高まりました。軍事的な自主権が制限されているという感情が強まり、日本国内では軍国主義的な思想が台頭します。

また、経済成長に伴い、資源確保の必要性が高まる中で、軍備制限が一層の重荷として認識されるようになります。

はためく旭日旗

国際的緊張の高まりと条約破棄

1930年代に入ると、満州事変を含む一連の出来事により、日本は国際的な緊張を高めました。ワシントン条約の枠組みでの軍縮が国防上不利であると判断した日本政府は、1934年に条約の破棄を通告しました。

この動きにより、日本は他国と異なる方針をとり、独自の軍拡路線に進むことを決定しました。

ワシントン体制の崩壊とその影響

日本の条約破棄により、ワシントン体制は崩壊し、主要国間での軍備競争が再燃しました。この体制崩壊は、国際協調から軍事力による外交へと舵を切るきっかけとなり、後の太平洋戦争に至る一因となります。

日本は自主防衛を強化する中で、アジア太平洋地域への影響力拡大を目指し、軍備増強に邁進しました。

まとめ

ワシントン海軍軍縮条約は、日本が米国や英国といった大国と軍縮を進める中で、平和的外交と軍事力の調整を図る大きな節目となりました。原敬と加藤友三郎は、それぞれ外交と軍事面で重要な役割を果たし、日本の立場を確保しました。

この条約がもたらした平和維持の意義は、その後の国際関係や日本の外交戦略に深い影響を与えました。

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