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内閣総理大臣・高橋是清は何をした人か:暗殺の経緯や理由(二・二六事件)と後世の評価を解説

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高橋是清 歴代首相の紹介
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高橋是清は、日露戦争の戦費調達や金融改革などで多大な貢献をした日本の経済学者であり、政治家でした。

しかし、彼の政治活動は軍部と対立を深め、最終的には二・二六事件で暗殺されることとなります。

本記事では、高橋是清の暗殺の経緯とその理由、また彼の後世での評価について解説します。

【参考】
日本銀行「高橋是清」
国立国会図書館「高橋是清」

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高橋是清の生い立ちと経歴

幼少期と教育

高橋是清(たかはし これきよ)は、1866年に岡山県で生まれました。父親は地元の商人であり、家計は困窮していたため、幼少期から苦労を経験しました。

彼は早くから学問に興味を持ち、藩校に通いながらも勉強を重ねました。明治時代の教育を受け、金融や経済の重要性を理解していきました。

日露戦争と戦費調達

高橋は日露戦争の際、戦費調達のために重要な役割を果たしました。

当時の日本政府は戦費の不足に悩み、高橋は政府に対し金融調整を提案。彼は海外資本を活用し、国際的な信用を得ることで戦費調達に成功しました。この功績により、高橋は一躍名を馳せました。

財政学者としての道

戦後、高橋は財政学者としても知られるようになり、日本の経済政策に大きな影響を与えました。彼の理論は経済の安定と発展に寄与し、その後、金融政策の改革を進めることとなります。特に、インフレ抑制政策において多くの改革を行い、日本経済の安定化に貢献しました。

政治家としての道のり

高橋はその後、政界に進出し、立憲政友会に所属。当時総裁だった原敬にも高く評価され、原敬の暗殺後には自身が政友会の総裁になって政治に携わりました。

特に経済学者としての知識を活かして大蔵大臣として政治に関わるようになり、財政政策を中心に日本の発展に尽力しました。

彼はまた、政府の財政状況を改善し、国民の生活を支えるための政策に取り組んだ人物として知られています。

原敬総理大臣の政策や暗殺事件については、以下の記事でくわしく解説しています。
内閣総理大臣・原敬とは何した人か?日本初の政党内閣・平民宰相としての業績と暗殺の経緯を振り返ります

高橋是清の性格

理論と実務を両立した人物

高橋是清は非常に理論家としても知られていますが、同時に実務家でもありました。彼は理論に基づいた政策提案を行いながら、実際の運用においても結果を出していました。

この点で、理想主義と現実的なアプローチをうまく調和させることができた人物でした。

寛容で冷静な性格

高橋は温厚で冷静な人物とされ、強い意志と人柄で周囲の信頼を集めました。困難な状況でも冷静さを保ち、難局を乗り越える力を持っていました。これが彼を名政治家、名財政家として名高い存在にした要因の一つです。

現実主義者としての姿勢

彼は理論に基づく政策を採る一方で、現実主義者として、実行可能な政策を重視しました。戦費調達や経済政策においても、彼は現実に即した方法を模索し、実行に移して成功を収めました。

情熱的な理想主義者

高橋は非常に情熱的な人物でもありました。彼は日本の経済と社会の発展を強く望み、そのために自分の能力を尽くしました。

彼の政治家としての姿勢には、常に日本の未来を良くするための理想が根底にありました。

高橋是清が政治家になった理由

財政危機への対応

高橋が政治家としての道を歩み始めたのは、当時の日本の財政危機に直面したためです。

日露戦争後、日本は戦費を抱え、経済的な危機が深刻化していました。高橋は、専門家としてその問題を解決するために政治の舞台に立つ決意を固めました。

立憲政友会への参加

高橋は、経済学者としての知識を政治に生かすべく、立憲政友会に参加しました。政友会は、彼の専門知識を評価し、政治の場において重要な役割を果たすよう期待しました。

これにより、彼は実務的な経験を積み、政治家として成長しました。

友好的な握手

政治の力で経済改革を実現

高橋は、政府内での位置を得ることで、経済政策を自らの手で改革することを目指しました。日本の経済が直面する問題を解決するため、政治家として経済政策の実行に積極的に関与しました。

民衆の生活を改善するため

高橋は、政治家としても民衆の生活を改善するために尽力しました。彼は、経済の安定が国民生活の向上に繋がると信じ、政府内での改革を進めました。特に、金融恐慌の後、経済の立て直しを果たし、国民の信頼を得ました。

高橋是清の政治家としての姿勢やこだわり

経済の安定を最優先

高橋是清は、政治家としての基本的な姿勢として、経済の安定を最優先に考えました。特に金融恐慌などの危機的な状況では、冷静に金融政策を見直し、インフレの抑制やデフレ脱却を実現しました。彼の政策は、国民生活の安定を重視するものでした。

政策の実行力

高橋は、政策を実現するために強い実行力を発揮しました。政策の効果が現れるまで粘り強く取り組み、その結果を積み上げていきました。

例えば、日露戦争の戦費調達を成功させ、経済改革を成し遂げた実績は、彼の政治家としてのこだわりが反映されています。

国民目線の改革

高橋は、改革を進める際に国民目線での政策を心がけました。彼は常に民衆の立場に立ち、経済改革が直接的に国民生活に影響を与えることを意識して行動していました。

そのため、彼の政策は一般市民からの支持を集めました。

議会との連携

高橋は議会との連携を重要視し、政治家としての仕事を進めるために、議会の賛同を得ることを重視しました。彼は立憲政友会の中で、他の政治家たちと連携し、経済政策の実現に尽力しました。この連携は、彼の政策推進力を高める大きな要因となりました。

内閣総理大臣に就任、短期間で辞職

1921年、総理大臣・原敬の暗殺によって高橋是清は内閣総理大臣に就任します。ところが政局のコントロールが不得手なため、約半年で辞任しました。

その後も、大蔵大臣として政策に携わりました。

金本位制の停止(金輸出の再禁止)

高橋は内閣総理大臣として就任する際、金輸出再禁止と金本位制からの撤退を目的にしました。金本位制は松方正義によって長年にわたって維持されていたもので、高橋はその通貨制度に不安を抱いていました。

それでも、金本位制からの撤退は他に選択肢がなく、結果的に国民の貧困層が救われ、産業が振興され、生活の安定が実現しました。

この政策が景気回復を促す結果となったことは、高橋の経済政策が一定の成功を収めた証拠と言えるでしょう。

なお、松方正義の事績について以下の記事でくわしく解説しています。
内閣総理大臣・松方正義の生涯と政治家としての業績:日本銀行設立と松方デフレなど財政政策と後世の影響

高橋是清暗殺の経緯や理由(二・二六事件)

1936年、高橋是清は二・二六事件で陸軍の青年将校に暗殺されます。その事件の背景や経緯を解説します。

くわしくは以下の記事で解説しています。
二・二六事件の真相と影響: 日本政治を揺るがした皇道派・青年将校の反乱はなぜ起きたのか

二・二六事件の陸軍青年将校

二・二六事件の背景

1936年、若手軍人による政府転覆を狙ったクーデター事件が発生します。これが二・二六事件です。高橋是清はその当時、岡田啓介内閣の大蔵大臣として日本の金融政策を指導していました。

インフレの発生を予想して軍事費の引き締めをしていました。軍部は年間4000万円の予算増額を希望していましたが、1000万円に抑えます。それが軍部の強い反発を招いていました。

高橋是清の金融政策と軍部との対立

高橋は、金融恐慌後の日本経済を立て直すため、強硬な経済政策を実行しました。特に、インフレ抑制と財政改革に注力し、軍部の増大する予算に対しては厳格な制限を設けました。

この姿勢が軍部にとって不満の種となり、二・二六事件の直接的な原因の一つとなりました。

金融の引き締め

高橋是清暗殺の経緯

1936年2月26日、二・二六事件が発生し、若手軍人によって高橋は自宅で暗殺されました。

事件の背後には、軍部が政府の改革政策に反発し、政府を掌握することを狙った動きがありました。高橋の暗殺は日本の政治に大きな衝撃を与え、後の軍部主導の政治体制を強化する契機となりました。

暗殺の理由と軍部の反発

高橋が進めた日露戦争の戦費調達に伴う金融改革や、政府の経済政策は、特に軍部にとって自らの権益を脅かすものでした。

また、彼の外交姿勢や第二次護憲運動における立憲政友会との連携も、軍部からの反感を買った要因となり、最終的に暗殺という極端な結果に繋がったとされています。

高橋是清の後世の評価

高橋是清の政治家としての業績

高橋是清は、日露戦争の戦費調達や金融恐慌後の改革で名を馳せました。特に、戦時中の戦費調達に成功したこと、そして戦後のインフレ抑制に向けた政策が後の日本経済に多大な影響を与えました。

これらの実績は、政治家としての彼の評価を確立する要因となりました。

金融恐慌後の改革と経済安定

高橋は、第一次世界大戦後の金融恐慌から立ち直るために、強力な財政改革を進めました。通貨の安定と物価管理を重視し、日本経済を安定させることに成功しました。この政策は、後世の日本経済にとって重要な土台となり、評価されています。

立憲政友会との関係

高橋は立憲政友会のメンバーとして、第二次護憲運動にも参加しました。この運動を通じて、日本の政治における民主的な改革を進め、経済政策に反映させました。

高橋が残した政治的な足跡は、後の日本政府においても高く評価されています。

高橋是清の後世の影響

高橋是清の経済政策は、後の日本の金融システムに多大な影響を与えました。彼の政策の一部は、戦後の日本経済の復興に役立ち、さらに彼が進めた金融改革は現在の日本の経済基盤にもつながっています。

彼の業績は、政治家としてだけでなく、経済人としての評価も高いです。

まとめ

高橋是清は、日露戦争の戦費調達や金融恐慌後の改革などを通じて日本の経済を安定させた政治家でした。しかし、その改革的な姿勢が軍部や右翼の反発を招き、1936年の二・二六事件で命を落としました。

後世では、彼の経済政策や政治家(特に大蔵大臣)としての業績が高く評価され、今日の日本経済にもその影響を残しています。

高橋是清の生涯についてもっと知りたい方には以下の本がおすすめです。


国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯 上


国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯 下

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