伊藤博文は、日本初の内閣総理大臣であり、明治憲法を起草し、日本近代史における最重要人物の一人です。韓国併合で韓国統監に就任し、ハルピンで安重根に暗殺されました。
幕末の混乱期に活躍し、明治維新後は新政府の中心的な役割を担いました。特に立憲政治の基盤を整備し、日本の近代化に大きく貢献しました。
また、外交にも力を注ぎ、アジアにおける日本の地位向上に寄与しました。
その一方で、彼の政策や行動は批判も招き、韓国では植民地化への関与が問題視されています。
本記事では、伊藤博文の生涯、功績、暗殺事件、そして現代に残る影響を詳しく解説します。
伊藤博文の生い立ち・経歴
まず、伊藤博文の生い立ちを振り返ります。
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百姓の家に生まれ、足軽として武士の身分を得る
伊藤博文は1841年に周防国熊毛郡(現在の山口県光市)で生まれました。本名は「林利助」と言い、農家の子として育ちました。
当時の日本は身分制度が厳しく、農民や武士の子供が社会的地位を超えることは困難でした。しかし、利助は幼い頃から勉学に励み、抜きん出た才能を発揮します。その後、養子として伊藤家に入ることで武士身分を得ました。
この養子縁組が後の出世の第一歩となります。
松下村塾で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に参加
若い頃から学問に秀で、吉田松陰のもとで学びました。松下村塾での学びや、長州藩内で新しい政治運動を主導していた高杉晋作や木戸孝允(桂小五郎)と出会い、大きな影響を受けました。
が伊藤の思想に大きな影響を与えました。
開国論者として幕末期の外交に大きく貢献
その後、英国に密航留学を経験し、アヘン戦争を経て中国人が西洋人の下風に立たされているのを見て危機感を覚え、開国派に転向しました。
留学中に、長州藩が攘夷実行を掲げて外国勢力と交戦する「四ヶ国艦隊下関砲撃事件」が発生。急遽、留学を切り上げて帰国します。
長州藩が欧米列強の圧倒的な軍事力の前になすすべなく敗れたのを見て、攘夷の非現実性を痛感します。この経験から、開国と近代化を推進する外交官としての道が開かれました。
明治維新後、数々の政府要職を歴任して近代化を進める
明治維新後、伊藤は新政府の中枢に加わり、要職を歴任しました。
初期には財務省(当時の大蔵省)や外務省の設立に尽力し、日本の近代国家としての基盤を作る政策に関わりました。兵庫県知事も経験しています。
また、外務省の設立や官僚制度の近代化を進め、日本が国際社会で対等に渡り合える国家を目指しました。
伊藤の行動力と政治的手腕は、近代化を急ぐ明治政府の中で重宝され、のちの憲法制定や内閣制度の導入へとつながります。
なお、明治維新について以下の記事で詳しく解説しています。
明治維新の時期と背景:幕末から維新へと至る道のりとその影響(活躍した人物の解説や主要出来事の年表付き)
中央集権体制の整備への貢献
廃藩置県(1871年)では、伊藤は藩閥政治の基盤を構築し、地方分権から中央集権へと移行する政策を主導しました。この改革により、藩主に代わって県令(知事)を中央政府が派遣する体制が整い、中央政府の影響力を全国に及ぼすことが可能となりました。これにより、日本は統一的な国家運営を行う近代国家への歩みを進めたのです。伊藤博文の政治的手腕は、この体制整備においても大いに発揮されました。
伊藤博文の総理大臣時代の功績
1885年、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任しました。総理大臣としての功績を以下にまとめています。

初代総理大臣に就任した背景
総理大臣制度の導入は明治維新以降、日本が近代国家を目指す過程で導入された西洋式の政治体制改革の一環でした。
当時、天皇を中心とした中央集権型の政治体制を構築する必要があり、その中で行政の最高責任者として総理大臣が設置されました。

伊藤博文は、明治政府の要職を歴任し、内外の政治に精通していたことから、初代総理大臣に選ばれました。彼のリーダーシップや外交手腕は信頼され、天皇や他の藩閥政治家からも支持を受けていました。
内閣制度の確立と政治体制の改革
伊藤博文の時代、内閣制度はまだ黎明期であり、その確立には多くの課題がありました。
彼は内閣を政治の最高機関として位置づけ、首相と各大臣の役割を明確にしました。内閣制度導入は、日本の政治体制を西洋に倣ったものへ進化させる重要な一歩でした。
また、行政の効率化を目指して官僚組織を整備し、政府内での役割分担を明確化することで、政策決定プロセスの透明性を高めました。
近代国家建設に向けた政策
伊藤博文の内閣は、近代化政策を積極的に推進しました。特に産業の振興やインフラ整備に注力し、鉄道や通信網の整備が行われました。
これにより、国内の物流と情報流通が活発化し、経済成長の基盤が築かれました。
また、教育制度の整備により、西洋の学問や文化が導入され、国民の知識水準が向上しました。これらの政策は、国家の発展と国際競争力の向上に大きく寄与しました。
外交政策と対外関係の調整
伊藤博文は、外交においても重要な役割を果たしました。1894年に起こった日清戦争の前夜には、清国との関係調整を図りつつ、日本の国益を守るための戦略を立案しました。
また、欧米諸国との不平等条約改正交渉にも尽力し、日本が国際社会で対等な地位を確立するための基盤を築きました。彼の外交政策は、近代日本の国際的な地位向上に貢献しました。
藩閥政治と批判の中でのリーダーシップ
伊藤博文の政権は、長州藩や薩摩藩出身者が中心となる藩閥政治に支えられていましたが、これに対する批判も強まりました。
彼はこうした批判を受け止めつつ、政策遂行におけるリーダーシップを発揮しました。政敵との妥協や調整を行いながら、安定した政権運営を実現しました。藩閥政治を超えた国民全体のための政策を追求する姿勢は、後の政治家に大きな影響を与えました。
なお、伊藤博文とは逆に、藩閥政治を重視した政治家として山縣有朋が挙げられます。山縣有朋は明治の元勲として、近代陸軍の創設と発展に大きく貢献しています。
山縣有朋について以下の記事で詳しく解説しています。
3代内閣総理大臣・山縣有朋は何をした人か:日本近代政治・軍事体制の確立に貢献した指導者を解説
伊藤博文が明治憲法を起草した理由と背景
伊藤博文はドイツのプロイセン憲法をもとにして明治憲法を起草しました。これは「列強との関係構築」を主な目的としていました。
憲法制定の必要性と時代背景
近代国家として国際社会に認められるには、近代的な憲法が不可欠でした。
当時、日本は封建制度から脱却し、中央集権国家を築く必要に迫られていました。欧米諸国の憲法を参考にすることで、日本独自の政治体制を形成しつつ、国際的な評価を得ることを目指しました。
プロイセン憲法を基にしたモデル選択の経緯
憲法起草のため、伊藤博文を中心とする視察団が欧米諸国を訪問しました。彼らは、立憲君主制を採用して成功しているドイツのプロイセン憲法に注目しました。
この選択は、日本が天皇を中心とした統治体制を維持しながら近代化を進めるという方針に合致していました。
憲法起草における具体的な作業と協力者
憲法起草は、伊藤博文だけでなく、井上毅や伊東巳代治といった有能な官僚の協力を得て進められました。
彼らは何度も議論を重ね、天皇制を基軸とした独自の憲法案を作り上げました。起草作業には細部にわたる検討が加えられ、全体として日本の伝統と近代性が調和する内容となりました。
大日本帝国憲法の主な特徴
1889年に公布された大日本帝国憲法は、天皇を主権者とし、議会や国民に一定の権利と義務を規定するものでした。天皇は統治権を持ちながらも、内閣や議会の助言に基づいて施政を行う体制が整えられました。
天皇は国の元首にして統治権を総攬
大日本帝国憲法 第四条より
大日本帝国憲法の施行により、日本に近代的な国家としての基盤が確立しました。
憲法公布と施行までのプロセス
憲法は1889年に公布され、1890年に施行されました。公布式典では、国内外の注目が集まり、日本が近代国家として歩み出す象徴的な出来事となりました。
憲法の施行は、国民の権利意識を高めると同時に、国家運営の新しい枠組みを定めるものでした。
憲法制定がもたらした日本社会の変化
憲法制定により、立法、行政、司法の三権分立が明確化され、政治制度が安定化しました。また、国民の間で近代国家の一員としての自覚が広まり、愛国心の醸成にもつながりました。
外国からも評価を受け、日本が国際社会で一層の存在感を示す契機となりました。
政治家としての伊藤博文の功績
政治家としての伊藤博文が明治時代の政治において果たした役割は、山縣有朋や桂太郎などの政治指導者と連携しながらのものでした。その功績を以下にまとめました。
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開明派としての伊藤博文の評価と立憲政治定着への貢献
伊藤博文は、豊かな国際感覚を持つ穏健な開明派として日本の近代化を推進した政治家で、特に憲法の制定とその運用を通じて日本に立憲政治を定着させた功績が大きいとされています。
伊藤のリーダーシップによって、日本はアジア初の立憲体制を確立し、その後の政治的基盤を築くことに成功しました。
大隈重信もまた立憲政治の推進において伊藤と並び称され、共に議会制民主主義の導入に尽力しました。
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超然主義から政党内閣への転換、柔軟な対応と進化
明治初期から開明派としての評価が高かった伊藤は、近代的な制度改革と立憲制への移行を主導しました。
当初、政党を重視しない「超然主義」を掲げていた伊藤ですが、初期の議会での経験を通じて政党内閣の必要性を痛感し、自ら政党組織の構築に乗り出しました。
このように状況の変化に柔軟に対応しながら、彼は日本の政治体制を発展させていきました。
財政再建を図った松方正義とともに、伊藤博文は日本の政治基盤を築くための重要な改革を進めました。
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西洋からの高評価、憲法維持と議会政治の父としての功績
伊藤は1882年から1883年にかけてドイツやイギリスなどヨーロッパ各国を歴訪し、憲法調査を行いました。ドイツ型に固執せず、イギリス型の議会制度も視野に入れて憲法制定を進めました。
1889年には明治憲法を制定し、憲法危機の際も憲法停止を避け立憲体制を維持することで、西欧諸国から「立憲主義・議会政治の父」としての評価を得ました。
国際協調を重視した外交路線、日露戦争や朝鮮併合への慎重な姿勢
外交面では、伊藤は現実主義に基づき国際協調を重視し、日露戦争や朝鮮併合についても慎重な態度を取っていました。
しかし、朝鮮や中国に対しては強硬な政策を取ることもあり、特に日清戦争や日露戦争後の対韓政策では、日本の利益を優先させる強圧的な交渉を行うこともありました。
山県有朋との対立と派閥形成、晩年の影響力の限界
伊藤の穏健な外交政策は山県有朋ら保守派官僚層との対立を招き、軟弱外交と批判されることもありました。しかし、明治天皇からの信任を受けた伊藤は明治期を通じて大きな影響力を持ち続けました。
国民からも人気を集めましたが、強固な派閥を作らなかったため、晩年には山県に比べ国内政治への影響力が次第に弱まっていきました。
※関連記事:3代内閣総理大臣・山縣有朋は何をした人か:日本近代政治・軍事体制の確立に貢献した指導者を解説
伊藤博文暗殺事件の背景と安重根の動機
伊藤博文は明治維新の立役者であり、日本の初代内閣総理大臣として日本の近代化に尽力しました。
晩年には朝鮮半島の統治に関心を持ち、積極的な干渉政策を進めました。この政策は韓国で強い反発を招き、暗殺されました。
暗殺者である安重根は、韓国の独立とアジアの平和を求めて行動し、伊藤を「弾圧者」とみなしました。この事件は、伊藤が朝鮮に及ぼした影響と韓国独立運動の高まりを象徴しています。
ハルビン駅での暗殺事件の経緯
1909年10月26日、ロシアのハルビン駅で、伊藤博文はロシア帝国の要人と会談するために訪れていました。その際、安重根が待ち伏せし、伊藤に向けて銃撃を行いました。
伊藤は即死はせず、その後、重傷により亡くなりました。
この暗殺は大きな衝撃を与え、日韓関係に重大な影響を及ぼしました。事件後、安重根は日本軍に逮捕され、日本国内外で事件が大きく報じられました。
なお、安重根による伊藤博文暗殺事件の詳細は以下の記事で解説しています。
安重根による伊藤博文暗殺事件の経緯:日本と韓国を揺るがせた歴史の舞台裏
安重根の思想とその行動の意図
安重根は韓国の独立運動家であり、アジア諸国が欧米列強から自立し、平和を確立することを望んでいました。彼は伊藤の政策を批判し、伊藤暗殺を独立運動の一環とみなしていました。
事件後、安重根は日本側で裁判にかけられますが、彼の思想や行動は現在でも韓国で高く評価されており、英雄視されています。
安重根の行動は、その後の韓国独立運動に大きな影響を与えました。
伊藤博文暗殺事件が日韓関係に与えた影響
伊藤博文の暗殺事件は、日韓関係において重要な転換点となりました。
伊藤の死後、日本は朝鮮半島に対する支配を強化し、1910年には韓国併合条約を締結して朝鮮を正式に日本の統治下に置きました。
この事件は、韓国側では独立への意志を象徴する出来事とされ、日本の支配に対する抵抗の精神が引き継がれました。現在でも、事件の歴史的評価は日韓で異なります。
現代における伊藤博文暗殺事件の評価と遺産
伊藤博文暗殺事件は、日本と韓国で異なる評価を受け続けています。日本では伊藤が近代日本の基盤を築いた功績者とされる一方、韓国では安重根の行動が韓国独立の象徴として称賛されています。
安重根の思想や行動は、今も韓国で広く記憶され、彼の遺志を継ぐ文化的な記念行事も行われています。この事件は、歴史認識の違いを通して現在の日韓関係にも影響を与えています。
伊藤博文の性格
伊藤博文は以下のような性格だったとされています。
一見豪放な性格で人懐っこく、周囲に愛された
人懐っこく親しみやすい性格が特徴であり、周囲の人々からも慕われる一方、豪放さも持ち合わせていました。
気さくで率直な人柄が高い信頼を得る要因に
伊藤はその率直な物言いで多くの信頼を勝ち得ました。とくに正直さが評価され、明治天皇からも信頼される存在となりました。
自らの信念に忠実で、一度決めたことは貫く強さ
自分の信念に忠実で、決断力と実行力を持っていたため、大きな改革にも果敢に挑戦しました。
芸者好きとしても知られ、社交的な一面を持つ
私生活では芸者好きとしても知られ、社交的な一面がありましたが、天皇からはほどほどにするよう諭されることもありました。
政治家・伊藤博文の後世の評価
こうした伊藤博文について、後世では以下のように評価されています。
立憲政治の確立に尽力した功績が高く評価される
憲法制定や立憲政治の確立に尽力した功績により、近代日本の礎を築いた人物として評価されています。
近代化と欧化政策を推進した開明派としての側面
欧米の制度を積極的に取り入れる開明派として、日本の近代化を強く推進したことが後世でも評価されています。
韓国統監としての評価には賛否が分かれる
韓国統監としての役割については日本国内外で賛否が分かれており、評価が分かれる要因となっています。
多彩な役職を歴任し、日本の基盤を築いた功労者
内閣総理大臣から枢密院議長まで幅広い役職を務め、日本の基盤を築いた功労者として称賛されています。
伊藤博文の政治家としての略歴(まとめ)
政治家としての略歴を簡単にまとめます。
初代内閣総理大臣として内閣制度を創設
太政官制を廃止し、内閣制度を創設することで近代的な行政システムを導入しました。
伊藤は内閣制度の整備に努め、同時期に活躍した黒田清隆もまた、近代国家建設に寄与しました。
※関連記事:第2代内閣総理大臣・黒田清隆の生涯と功績|生い立ちから政治家としての経歴と後世の評価まで徹底解説
日清戦争講和条約「下関条約」の起草を担当
日清戦争後、下関条約の起草を担当し、戦後の外交処理を成功に導きました。
貴族院議長や枢密院議長など要職を歴任
初代貴族院議長や初代枢密院議長を務め、立憲政治の発展に寄与しました。
初代韓国統監として朝鮮統治に関与
初代韓国統監として朝鮮の統治にも関与しましたが、併合には慎重な姿勢を示しました。
まとめ
伊藤博文の生涯は、近代日本の礎を築いた重要な時代の象徴です。彼の政治家としての功績は、憲法制定や内閣制度の整備に留まらず、日本の国際的地位の向上にも寄与しました。
一方で、彼の思想や政策に対する評価は分かれ、今日でも議論が続いています。伊藤の功績を知ることで、彼がどれほど日本の歴史に影響を与えたかを理解できるでしょう。
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伊藤博文 近代日本を創った男 (講談社学術文庫)
また、海外サイトでどのように紹介されているのかこちらで閲覧できます。
New World Encyclopedia-Ito Hirobumi
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